サキソフォン奏者の三木俊雄氏のヤマハのブログが終わっていたことを知って寂しい気持ちになっています。三木氏の言説は、これはそういうものなんだから、という「定説」や、偉い人がそう言っているんだから、という「権威」には拠らず、第一線で活躍されている方でありながらご自身の内側で発生する日々の疑問から生まれているように思えることが多く、共感とともに拝読させていただいておりました。
氏の7月8日のソニー・ロリンズに関する記事もまさにそうした共感を持ったところでした。
例えばあらかじめ練習したパターンや代理のコードチェンジをプレーの中に折り込む、というのは僕にとってかなりの不可能に近いほど難しい。いや、正確に言うならそれが自分の中で明確に聴こえてこない状態で吹こうとするとほぼ上手くいかないのを何度も経験している。まさに”I’ve tried”だ。I’ve tried many times.
ごく稀にたまたま失敗せずに吹けたとしても、何と言うか嘘をついているようで、あまりいい気分にはならない。しかしそれがふと自分の中で聴こえてきて、プレー出来たときは天にも昇る心地だ。
この「何と言うか嘘をついているようで、あまりいい気分にはならない。」というくだりは、私個人の長年の苦悩(そこから解脱するために練習を続けている 笑)を1行で表現してもらったような気がしました。
ジャズは本来的に「書かれた言葉」による伝承ではなく、聴覚による(auralな)伝承であるのは間違いないでしょう。平たく言うと、本で学ぶものではない。先人の演奏を、目の前で、あるいは録音で聴き、仲間の演奏を聴きながら、耳で覚えていく音楽。そこにはあるのはまず模倣であり、模倣による伝統の継承がある。好むと好まざるとにかかわらず、歌舞伎や落語のような伝統芸能的な側面がある。
しかし、コピーしたフレーズを実際の演奏で弾いてみても、「嘘をついている」ような気持ちに悩まされたものです。これは、ヘンな話でした。自分はウェスに、グリーンに、メセニーに、カートに感動した。だから彼らのフレーズを練習した。それを本番中に、あてはめてみた。でも、この嘘くささは一体何だ。俺は、これをやり続けたいのか。最初は、これができるようになって嬉しかったのに、この違和感は何だ…
そこで、そういう先人達のフレーズを封印し、アルペジオやボイス・リーディングを地道に研究し、クラシック音楽である程度まで方法論化されている変奏の方法を学んで、インターバルをやったり、色んなパーミューテーションを試したりと、抽象的な練習を開始します。そしてまた、人前に出て再チャレンジ。
でもそれは最初まったくうまく行かない。それは別の意味で「嘘っぽい」演奏でした。「歴史性」を拠り所にしない自分の表現は、無力で、オーラがなく、他人どころか自分でも感動できなかった。
ところが、ウェス風の裏コードを意識したフレーズとか、ジョンスコやヴィトウスからコピーしたコンディミ系のフレーズなどをそのまま弾くと、聞いている人は「やるじゃん、かっこ良いよ、迷いがなくて、キレキレだよ!」と褒めてくれるのでした。それはもう本当に複雑な気持ちでした。褒められるのは嬉しい。でも、あれは俺の中から出てきたフレーズじゃない。あれは、ただのモノマネなんだ…
でももうずーっとその両極を往復するような練習を続けてきました。そして、私の場合それは間違っていなかったと思っています。これからも「伝統と歴史」の求心力と、それに拮抗する自分自身の表現を持つことができるか、そのせめぎあいが続くのでしょう。どちらかだけだと、自分はダメになるし、あまり良い音楽は出てこない。
黙って偉い人の言っていることを聞いておけばいいんだよ、というAさんは論外。かといって反対に、俺は完全無欠のオリジナル人間だ、過去や他人に学ぶものなど何もない、などとドスを振り回すBさんの表現にオリジナリティがあった試しはない(モンクとジャコは珍しい例外だったかもしれないけど)。Aさんの音楽も、Bさんの音楽も、私はあんまり興味がない。
結局のところ、どれだけ過去や伝統を内面化できるか。血肉にできるか。それに尽きるのでしょう。内面化するためには、とにかく弾くしかない。聴くしかない。聴いて弾くしかない。そういえば最近、ラーゲやギラッドをよく聴くのですが、たまにケッセルやジョー・パスみたいなフレーズが出てきて驚きます。そして、それはやっぱり嘘くさい感じがないのです。
と、話がそれてしまいましたが、三木氏のブログはいつも私にこういう音楽の深いところを考えさせてくれました。遠からぬ将来にZ BLOGの再開に期待しております。