昨年、この話には続きがあるんだよ、という感じのソロを目指してという記事を書きました。
ギタリストの友人が普段あまりジャズを聴かないという女性に「ジャズのアドリブって何のためにあるの?」と真顔で問われ言葉を失ったという耳の痛い話なのですが、この話には後日談があります。
友人はその後、「ジャズのアドリブの存在意義・その魅力がいまひとつ腹に落ちない」らしい件の知人女性を「啓蒙」すべく、様々なジャズのライブに連れて行ったそうです。著名な国内・海外ミュージシャンのライブです。しかしその女性がそこでの音楽に没頭・熱中する様子はやはり見られなかったそうです。
「その人なんだがな。観察しているとライブ中に何度か寝落ちするんだ。頭がガクガクッとなったり、ひどい時はバラードの時にいびきをかいたこともあって、俺は焦った」と友人。
「本人は寝ないように『頑張っている』らしいんだが、『何の曲かわからなく』なったり『いま曲のどの部分わからなく』なったり、ベースソロは『モコモコしてよく聴こえないし、なくてもいいんじゃないか』と思ったりすると睡魔に襲われるらしい。つか、『頑張って聴く』っていうのもヘンな話だろう?」
ホッピー(濃い目の黒)のジョッキを握る俺の手はまたしてもガクガクと震え出した。嫌な予感がする。
「それで、俺はある仮説を持つに至ったんだ」と友人。
「仮説?」
「うん。もしかしてそのひとは『耳が出来ていない』んじゃないかと思ったんだ。演奏が素晴らしくても理解する能力がまだ備わってない。ほら、ジャズのサウンドって若干複雑だろ。J-POPしか聴いたことがない人にとってリディアンとかリディアンオーグメントって意味不明のものに聞こえるんじゃないか」
「ふむ。そういうこともあるかもしれないね。セッションなんかでもリディアンが一瞬たりとも出てこない人もいるもんね。プレイヤーでさえアマチュアだと特定のサウンドが身体に入ってない人って珍しくないからなぁ」
「あるいは、だ。アドリブ・ソロが曲全体の中でどういう位置付けになっているか、テーマからどんなふうに展開されているかを理解するためのパターン認識能力、抽象化能力がない。審美眼がない。そういうことじゃないかと思ったんだ。彼女には、ジャズはまだ早いんじゃないか、とな」
「なるほど。つまり連れて行ったライブの内容じゃなく、その女性側に問題があったというわけか。ジャズはまだ難しすぎたというわけか」
「いや、ところがそう簡単なことじゃなかったんだ。この話のサビは、これからだ。Bメロはこれからなんだよ。しかも転調先のキーは、BとかF#とかそういうやつだ」と友人。
「実は一緒にライブをいろいろ観た後、そのひとにいろんなCDやDVDを貸した。オールドスクールから最新のジャズまで、俺もお前も多分最高と考えるジャズの音源群だ。すると彼女は、メセニーの『Kin (<-->)』と『Unity Band』、アバクロの『39 Steps』、カートの『Star of Jupiter』が大好きって言ったんだ」
俺は額と背中に冷たい汗が流れるのを感じた。グラスの中のホッピーが振動で波打っている。この話の続きは聞かないほうが良いように思えた。
「つまりだ。そういう音楽が大好きと言えるわけだから、ジャズならではのグルーヴとか、洗練されたハーモニーが理解できないわけじゃないんだ、彼女は。耳が出来ていない、審美眼がない、というのは俺の傲慢な仮説だったわけだ。さらに彼女は、こんなことをさらりと言ったんだよ」
俺はゴクリと唾を飲んだ。
パット・メセニーとかカート・ローゼンウィンケルとかって、ジャンルで言うと何?
あの女はそう聞いた。これは何ていう種類の音楽なんだ、ってね。俺は躊躇せず即答したよ。『ジャズですよ! ジャズに決まってるじゃないですか!』すると彼女は、えっ、っていう感じの顔をして、少し沈黙してから、こう言ったんだ。
そうなんだ、あれもジャズなんだ。でも、連れて行ってくれたジャズのライブと、何か違う音楽に聴こえるね。何が同じなんだろう。それに、退屈なところが全然ないよ!
友人は「霧島」のロックのグラスを持ったまま、ピクリとも動かない。目は虚ろだ。口から白い魂のようなものがフッと外に流れ出るのが見えた。友人と俺は、その場で数秒間確実に幽体離脱していた。
「『パット・メセニーも……ジャズなの?』」俺は合ったことのないその女性をイメージして、口に出してみた。「『これも……ジャズなの? 全然違う……音楽……みたい……』」
「やめろ! もうやめるんだ!」友人は俺のシャツの襟首を掴んでガクガク揺さぶっている。たぶん俺は白目をむいて涎を垂らしていただろう。
友人も、私も、「その人が『ジャズがよくわからないらしい』のはあまりジャズを聴いたことがないから、感じ取るための耳が出来てないせいだろう」という思いが、心のどこかにあったのだ。
しかし、そうではなかったのだ。その女性は、良い音楽を識別する能力をしっかり持っていたのだ。もしかすると、プレイヤーとして音楽にどっぷり浸かっている友人や私以上に、本当に良い音楽を感受する汚れなき魂を持っているのかもしれない。
「お前が連れて行ったジャズのライブと、彼女が感動したっていうミュージシャンの音楽、何が違うんだろうな。謎だよな」
いや、そこに謎はない、と友人。「聞いてみたんだ。どう違うんですか? あなたが気に入った音楽と、感動しなかった音楽、何が違うんですか」ってな。すると彼女はこう言ったんだ。
良かった音楽は、聴いてて身体が自然に動き出す感じ!
俺の記憶はそこで止まっている。以後その夜、友人とどんな話をしたか覚えていない。どうやって帰宅したかも覚えていない。翌日は二日酔いで会社を休み、一日ギターを手に取ることがなかった ー完ー