サッカーの本田圭佑選手がYahoo!ニュースの記事で面白い発言をしていました。
自分は「日本が大好き」とした上で、「日本人はダメな部分があって」と指摘するのは「海外のことを美化しすぎ」な点だった。「試合をする前から名前負けしている。その可能性のことだけを考える。余計なことだけは考えない。勝つ可能性を1%でも上げていく。その作業をしたいと思います」と静かに語った。
本田選手のことを語れるほど私はサッカーに詳しくないのですが、欧州や中南米でプレイしている本田氏のこの言葉は興味深いものでした。先日この記事でも書いたのですが、日本人は自動的に、反射的に外国の文物や外国人を盲信・礼賛してしまう傾向があると思います。
勿論、サッカーもジャズも発祥はヨーロッパやアメリカやアフリカだったりするので、ルーツに敬意を払うという意味では「オリジナルはすごい、本場の人間はすごい」という感覚はあってもいいと思うし、それは自然かつ健全なものだと思います。でも「セリエAは格が違う。日本人は何をやってもダメだ」という言い方をいつまでも続けていると、「日本人コンプレックス」からは抜け出られない。
例えばジャズギターというジャンルで「世界的に認められる」方法として、バークリーのような音楽学校で優れた先生に学んで人脈も作り、ニューヨークに出て現地のミュージシャンと親交を深め、そこでプレイする、というシナリオはよく耳にします。それは恐らく今でも有効なものなのかもしれません。
ただ、それ以外の選択肢もあるのではないか。そもそも「世界に通用する表現を手に入れる」という考え方をする時、そこには罠があります。それは「普遍性」の正体を誤解してしまうことでしょう。
普遍的な表現。世界的に通用し、評価されうる表現。それらを手に入れるために、思いっきりローカルな何事かにこだわってみる、というのは有効ではないかと思います。日本でしか発生しえないような表現。日本人にしか通用しないような表現を突き詰めてみる。いや、日本人云々ではなく、あなたやこの俺にしかできない表現を追求してみる。
150年前くらいに書かれた、ロシアの作家ドストエフスキーの小説などを読んでいると、ローカルすぎて全く意味がわからない箇所がたくさんあります。サンクト・ペテルブルク近郊を走る冬の朝の列車の描写とか、現代日本人の私には視覚化できない。性格の悪い役人の話とか全くわからない。でも結果的に、彼の作品はびっくりするほど面白い。150年前のロシアの話に、2018年現在極東在住の私が感動してしまう。
想像の域を出ないのですが、ドストエフスキーは、世界的に通用する表現は何か、などとは考えていなかったんじゃないか、と思います。普遍的な何かに至るためには、外国の優れた何かに範を求めることはあっても(それ自体は必要なことでしょう)、それが全てではない。ローカルな何か、自分にしかないような何かに徹底的にこだわってみる。
最終的に外国の優れたジャズ・ミュージシャンに評価されうるような表現、表現者は、そういうプロセスを経た人じゃないのかな、と想像します。
下の記事で、亡くなったジョン・アバークロンビーの言葉を紹介しました。
自分がいちばん好きなものの中心を頑張って探すということさ。自分自身の中でいちばん響いているもの (“what resonates in you the most”) は何かを。木の幹を持つ、みたいなことだ。自分がやっていることの根っこ、自分の心を動かすもの、君をいちばんインスパイアするもの、いちばん良い気持ちにさせてくれるものを探すんだ、それ以外は全部枝葉みたいなもので、自分にとっての幹線道路ではない、自分のメイン・ロードを探さないといけない。
その答えは「外国」や「外側」にはないのでしょう。いい歳をした大人になったら、「枝葉」ではなく「幹」にこだわるべき。アマチュアと呼ばれる人でも。人生は一度きり。他人の顔色を伺った何かではなく、「自分のこと」をやりたい。