ハービー・ハンコックとウェイン・ショーターが創価学会員であるというのは有名な話だと思いますが、以前から何がきっかけで入信したのだろうとぼんやり気になっていました。
最近ハービー・ハンコックの自伝、Herbie Hancock : Possibilitesを読んでいるのですが(日本語版はこちら)、p.154-157あたりにそのあたりの事情が書いてありました。
音楽的に「スイッチが入った」夜をさらに多く求めていたハービー・ハンコックは、友達がハマっている仏教というものがそれに役立つなら実践してみたいと思ったそうです。大体以下のようなことが書いてありました。
- 「南無妙法蓮華経」と唱えることは、サウンドを通じて、自分の人生を「原因と結果に関する神秘的な法則と融合させること」である
- 原因と結果という考え方は科学的なものなので気に入った
- 「南無妙法蓮華経」は重力や熱力学の法則のようなものであり、信じなくてもワークする。ただ唱えさえすれば良い
- 信じても信じなくともワークするのだから、試してみても損はしないだろう
- 仏教を信仰するにあたって、他の何かへの信仰を捨てる必要はない
- 「南無妙法蓮華経」を唱えれば真実は自ずとそれ自身を明らかにしていく
という感じで信仰するようになったようです。もうこの世界と人生に絶望したので入信しました、というのではなく、音楽的な方面を改善するために仏教に興味を持ったらしい。私は創価学会の選挙活動でとても嫌な思いをしたことがあり、良い印象を持っていなかったのですが、仏教自体は面白そうだなと思いました。
彼の言葉を読む限り「南無妙法蓮華経」は、例えば重力のように当たり前に存在する法則なので、それを唱えることによってその法則を意識することにより、メンタルが調整され、その結果いろいろと良いことが実生活で起こる。ということのようです(※かなりざっくりした個人的な理解です)。
朝起きて顔を洗う、毎日必ず特定の音列を練習するといった儀式的な行為に似ているように思いました。ベン・モンダーは毎日練習をはじめる前にギター用に自分でアレンジしたバッハを1曲演奏するらしのですが、それも「南無妙法蓮華経」と唱えることに似た行為ではあるまいか、と思いました。
以前、興味本位で一度だけ「写経」を体験しにお寺に行ったことを急に思い出しました。確かその時も、「南無妙法蓮華経」は意味がわからなくとも書くだけで良いのだ、と言われ、何だろうと思ったのでした。意味がわからないことを実践しても、何の役にも立たないじゃないか、と。
なるほど「南無妙法蓮華経」は法則であり、その法則が発動するためにはそれを理解する必要も、信じる必要もないのだ、ということですね。信仰を強要しない、という点ではキリスト教のような一神教とは違っていますが、「それは既にそこにあり、それは疑いようもない」という点では同じでしょうか。
ピアノでもギターでも、C音をポーンと一つ弾くとする。その時に鳴っている、C7(9 #11)を構成する倍音列を聴き取ろうとすることに似ているような気もします(余談:ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトは、理論というより思想・宗教ではないかと思う)。
音楽家と宗教、ということでは、私が最初に思い出すのはフランスの現代音楽作曲家のオリヴィエ・メシアンです。この人はもうちょっとヤバいくらいの強烈なカトリック信仰を持っていて、作品が全てカトリック絡みです。曲名だけでなく、聖書に出てくる数字を音楽構造の土台にしたりしていたと思います。
そのメシアンを尊敬していた日本の武満徹も、彼自身は無宗教の人だったようですが、一種の神秘主義にハマっていて夢や数といった要素を作曲に持ち込んでいました。ギリシャ人のクセナキスは数学の群論を使ったりしていましたが、あれも見方を変えると宗教的に思えます。
ハービー・ハンコックと宗教の関係は、そうしたわかりやすく表出されているものというより、生き方やアティチュード、音楽との取り組み方にかかわるもう少し抽象的なものに見えますが、「既に与えられている法則」とあらためて触れ合ってみるという点ではやはり似ているかもしれません。
そういえばバッハの遺作のフーガには”BACH” (ドイツ語では音名として読むことができ、Bb, A, C, Bになる) という音列を主題に持つ未完の曲がありました。これも音楽は既にそこにある、という感じですね。恐ろしい感じさえします。
ギターを構え、心を無にして、何か弾こう。弾くべきものは、既にそこにある。法則は、すでにそこにある。音楽は、自ずと生まれ出てくるはずだ。
… ヤバい何も出てこない。練習しよっと。