発売されたばかりのヤング・ギター(2018年2月号)の表紙に惹かれました。「ギターと理論」が今号のテーマ。ロック・ギター音楽の世界では昔から「感覚派と理論派」の反目が絶えないらしく、そこに何らかの指針を提示しよう、という趣旨のようです。冒頭のインタビュー記事でジョー・サトリアーニがこんなことを言っていました。
決して少なくない人達が、なぜだか理論を恐れているようなんだ。新しいものを学ぶと、何かを失ってしまうのではないかとでも思っているようなんだよ。だから僕は、みんなに説明できないといけない。「恐れることなど何もない」「失うものなど何もない」とね。(…)音楽理論を恐れている人は、”音楽理論”と呼ぶべきじゃない。”音楽情報”と呼ぶべきだ。そうすると、ちょっとホッとするだろ?(笑) そう、単なる”情報”なんだよ!
これはうまくまとめているなぁと思いました。同感です。ジャズ・ギターの世界でも「理論ヘイト」な人々と遭遇することは稀にあるのですが、多くの場合、彼等は「理論を学ぶと何かを失う」と思っていることが多いです。そして理論の対極であるかのように「感覚」という言葉を口にします。
彼等はよくウェス・モンゴメリーを例に挙げ、ウェスは譜面を読めなかったし、理論を知らなかった、歌心だけであそこまで行ったのだ、という主張をすることも多いです。ウェスが本当に譜面を読めなかったのかどうかは知りませんが、彼が「理論を知らなかった」というのは、適切な表現ではないだろう、と個人的には思います(譜面を読める・読めない、は、理論を知っている・知らない、と関係がない)。
そもそも理論とは
そもそも「理論」とは何でしょう。Wikipedia日本語版には次のような説明があります。
理論は事象を合理的に説明するための論述であり(…)高度に複雑な現実の世界を単純化することが可能である。
なるほど、複雑な何かを合理的かつ単純に説明するための論述である、と。複雑なままだと扱えないから、抽象化する、と。この意味で言えば、ウェスは理論を知っていたはず。というのも彼は下の動画でピアニストに、全音で、ここはこのコードでこの音から、Fmだ、違うEbmだ、等々、音と言葉で説明して、完全に理解してもらっています(15:09〜)。
この振る舞いは「理論を知っている人」のものです。ウェスは自分がやろうとしていることを抽象化・単純化して他人に伝えるスキルを持っていた。私はこういう人は「理論派」だと思っています(ぱっと見た感じ、感覚派に見えるかもしれませんが…)。
では理論を否定したがる人、時に「感覚派」と呼ばれる人々は、なぜそうなってしまうのか。
「高度に複雑な現実の世界」を「単純化したくない」(何か失われそうな気がするから)または「単純化したくてもできない」(難しいから、考えるのが面倒だから)と感じているからか。
ジョー・サトリアーニはこんなことも言っています。ピアニストのレニー・トリスターノにレッスンを受けていたそうですが(ビックリ)、こんなことを学んだらしい。
彼(レニー・トリスターノ)から学んだことは、”どうしたらミュージシャンになれるか”だった。練習することの本当の意味、そしていかにして自分を騙さないで、自分が何を知らないかを知るということ。
文脈からは、理論が好きでない人は、自分を騙している。自分が何を知らないかを知ろうとしないんだ、と言いたそうです。
「理論派」が複雑な現実に対応するために世界の仕組みを知ろうとするのに対し、「感覚派」は複雑な現実に恐怖を感じ、知らなくてもいいんだ、と自分を騙す、という言い方もできるように思います(後述しますが、私は「感覚派」をディスっているわけではなく、そもそも「理論派・感覚派」的な区別自体がおかしいと思っています)。
感覚派と理論派はそんなに違うのか
しかしよく思うのですが、いわゆる「感覚派」の人々が主張していることと、「理論派」の人々が主張していることは、そんなに違うのかと。個人的にはそんなに違わないと思っています。どちらも、良い結果を目指している点で共通しています。良いメロディ、良いグルーヴ、良い音楽を目指している。理論を積極的に学ぶ人にしても、理論そのものが目的ではない。あくまでツール。
感覚派と理論派について、下に3つの例を挙げてみます。
感覚派:野生動物を仕留める時は、必ず風下からだ…何故かはわからないが、風上から近付くと気付かれて逃げられる
理論派:野生動物を仕留める時は、必ず風下からだ…風上から近付くと、匂いが運ばれていくから気付かれてしまう。しかし匂いを完全に消せるのなら風上から近付くこともできるだろう
感覚派:F7(b9)の時にF#dim7のフレーズを弾くと、理由はよくわからないが、いい感じにサウンドする
理論派:F7の時にF#dim7のフレーズを弾くと、F7(b9, no root)になるから完全に合う。そしてディミニッシュは3フレットづつずらしていっても構成音は変わらないから、Adim7, Cdim7, Ebdim7と考えたっていい
感覚派:俺はF7(b9)の時にEbドリアンを弾く。だってかっこいいからな。何故かはわからないが、かっこいい
理論派:F7(b9)の時にEbドリアンを弾くのはかっこいい。それはF7(b9,#9,11,b13)になり、普通のオルタードにはない11thテンションが入っている。しかもIVmというサブドミナント・マイナーでの代理を意識させる。ジャズを聴き慣れた者の耳には、ジョン・コルトレーンやパット・マルティーノの記憶も呼び覚ます。そういう諸々の理由でグッとくるのだ。ところでサブドミナント・マイナーと考えれば拡張してIVm7-bVII7のようなことをしてもいいわけだ…
この人達がケンカする理由は何処にもないんですね。違いがあるとしたら、感覚派は「良い結果をもたらす行為を精密に把握していない」点でしょうか。その結果、良い結果の再現性が少し減ってしまう。理論派のほうが、様々な可能性に対して開かれている、選択肢を多く持てる、というのはあると思います。
どちらも目指すところは同じであるはず。でも、単純にどちらがより自由だろうか、という話だと思います。誰もが、熱くてカッコいい音楽をやりたい。そして、できればたまたまラッキーで100回中1回だけミラクルなスーパープレイ、残りは全部ダメ、とかでなく、100回中90回はOKなフレーズを弾きたい、そして願わくば1回でもその時の自分に生み出せる最良のメロディを出したい。
アマは絶対性(absolutes)の中で考える。プロは蓋然性(probabilities)の中で考える。
という言葉を、この記事で紹介しましたが、理論を学ぶということは、神頼みやミラクルな霊感のひらめきに頼るのでなく、より多くのミラクルを発生させるための科学的な下準備とは言えないでしょうか。そして科学と信仰というのは決して対立しないのではないか、とも思っています。