何事についても言えることだと思いますが、目的が明確でない行為が良い結果や成果に繋がらないというのは間違いないことでしょう。
一般論として「練習すること」の目的とは何でしょうか。人は何のために練習をするのでしょうか。勿論「上達するため」だとは思いますが、この記事を書きながらもう少し掘り下げてみたいと思います。練習の目的は見方によって様々あるとは思うのですが、そのうち一つは間違いなく
「無意識で実行できる行為を増やす」
ことであると言えると思います。考えずにできる行為、言語による論理的思考を介在させることなく、ほとんど動物的な直観で実行可能な行為群を増やす。そのために人は練習するのだ、と言えないでしょうか。
「無意識で実行できること」はどういうことでしょうか。例えばライブやジャム・セッションで人前で演奏することを考えてみます。
アンプにシールドを差し、ボリュームを調整し、カウントを出す。共演者のフレーズの終わりを引き取り、それをモチーフに自分のソロをはじめる。ずれたピックの位置を修正する、ピックでは遅く重く聞こえる4声ボイシングは4本の指で同時に弾く、極端に速いパッセージを弾く時はネックの角度を変える、ソロのクロージングをホーン奏者に目で合図する、バッキング時に音量を調整する、トーンポットを調整する、演奏中にシャープしてしまった3弦を調弦する、背後にあるドアを開いてやって来たお客さんのために道をつくる…
こうしたことは全て無意識に行われています。というか、そうでなければ余裕のある演奏ができているとは恐らく言えないでしょう。
何かが聴こえたら、考える前に指が動いていなければ弾けている状態であるとはやはり言えない。いまEm7b5だ、b13から半音で降りるにはどのポジションで… などと考えている時間的な余裕はまったくないですよね。そこでb13から下るそのラインが聴こえたら、そこに指が勝手に移動しないといけない。
先日1万種類のキックを1回だけ練習した男を私は恐れない。1種類のキックを1万回練習した男を私は恐れるという記事を書いたのですが、この1万回練習することによって得られる成果というのは、その行為を無意識に繰り出せるということにあると思います(ただし後述するように、それは「山」と言えば「川」と応えるということとは少し意味が違うと考えます)。
個人的に「巨人の星」(古っ)的な「根性系」の練習に良い効果は皆無だと思っているのですが、こういう意味で同じことを1万回やるのはありだと思っています。というか、実際に自分でそのくらいの数をこなしてきたものはやはり自信を持って弾ける。そして自信と確信のない演奏はたぶん人を感動させられない。
例えばFのブルースで8小節目にVI7altを使うとしたら、何のコードだっけ、という状態は「即興できる」状態からははるかに遠く、D7altのポジションのどれかに自然に手が移動していて当たり前、そこでいくつか弾けるものがあり、その時に弾きたいと思ったものを自信を持って弾ける、そういうレベルでないと即興演奏はとても無理。
「考えるな、感じろ」という有名な言葉があるように(そういえばこれも元々ブルース・リーの言葉だったと思います)、「感じて」弾けるようになるまでには、事前に考えに考えぬいて、論理と左脳的分析で片付けられるものは自分なりに完全に整理し、そこで可能なものを全て試してみて、その上で本番では全てを忘れて弾かなければならない。ジョージ・ベンソンに
おもいっきり練習したら、本番では全部忘れて、ただ弾くんだ
というとても有名な言葉がありますが、これもまさに同じことを言っているように思います(私はこのベンソンの言葉の意味を理解できるようになるまで何年もかかりました。全部忘れて弾くって、全部忘れたら何も弾けないじゃないか、と最初は思っていたのでした)。
ここでかなり個人的な見解なのですが、いわゆる「本番」(立ち止まって反省する機会のある「練習」ではなく、最初から最後まで音楽のフローを断ち切ることなく演奏すること)の場合、何より大切なのが脳(≒耳)と指とのあいだに介入しうる様々な「ノイズ」を可能な限り減らすことではないかと感じています。
「ノイズ」となりうるものは何か。ある運指について自信がなかったりすると、あっここは中指? みたいな思考が発生してします。これはノイズのわかりやすい例でしょう。こういうノイズは練習の段階で徹底的に排除しておく。本番では絶対にそんなことを考えない。
また、演奏する曲にもよると思いますが楽譜を見てしまうと言語的な思考が発生してしまう場合があると思います。楽譜という視覚情報は何かやはりワンクッションあるという気がします。もし曲をよく知らないという理由で楽譜を見ているのなら、それは多分ノイズとなりうる(※現代音楽で使用する図形楽譜のような、記号的な言語によるものは少し違う話になると思います)。
だから苦手な運指は徹底的に練習しておくし、スタンダード曲なら当然暗譜する。コード進行を「暗記」するのではなく、朦朧とした状態でも鳴っているコードを指板上で指が勝手に追いかけられるくらいのレベルで身体に染み込ませる。そのくらいソングに精通しておく。代理コードもスーパーインポジションも含めて。
ただ、これは一見するといわゆる「マッスルメモリー」を得ることと似ているところがあるのですが、似て非なるものだと思うのです。
何も考えず無反省に、それが何を意図した練習なのか明確でないままスケールやアルペジオやフレーズの練習をしていてもまず良いことはないのだろうと思います。そういう練習は、ギターを手にしたばかりの中学生が何も考えずに手癖のマイナーペンタを弾き続けるのと本質的には違わない。
勿論、それは時として楽しいことなのかもしれません。しかし良い音楽に近付くためには、もっと厳しい修行が要る。厳しいけれど、その先には素晴らしい世界があって、誰でも時々ちらちらとその姿が見える(聞こえる)ことがありますよね。
毎日少しづつでも同じ練習を繰り返していると、最初は不可能に思えたことでもできるようになることを体感してきましたが、同時に毎日同じことをやり続けることの大変さも実感してきました。さらに一度「できるようになった」と思えたことでも、実は意外に無意識の領域に刷り込むまでは行っていないことも多々あり、何度かやりなおしたことがあります。
もうあれです、ゴルゴ13のように、背後に立たれたらとりあえずぶん殴る。いや、それはマッスル・メモリーです。悪い例です(笑)。後ろに立たれたら空手チョップ、というのは4度進行するドミナントだから必ずオルタード、みたいなものですよね。
他にも選択肢は山ほどある。ミクソリディアンもホールトーンもコンディミも5度下のハーモニック・マイナーもある。弾かないという手だって時々はある。その時弾きたいのがオルタードの1種ならそれを確実に弾けるようにしておく、ということですね。
即興演奏の世界は本当に深いです。深すぎて本当に多くの修練を必要としますが、いろいろできるようになってくると報いも大きいです。時々、こうやって日記のように練習の意味について考えることによって、より良い練習ができるようになりたいと思います(勿論、それは全てより良い音楽を演奏できるようになるため!)。