どうもここ数年、邦画の予告編を見せられるたびに妙な感じがしていたのでした。最近の邦画は、何かおかしい。登場人物がみんな泣く。隠された秘密とか数奇な運命を乗り越えた究極の愛があって、最後は抱き合ってみんなワンワン泣く。これを超える感動はない!お前らみんな泣け!という感じの映画ばかりではないか、という気がしています。
「アメリカン・スナイパー」というクリント・イーストウッドの映画をいま唐突に思い出しました。あの映画のラストシーン、無音のフィルム映像は、上で書いたような「感動の押し売り」の対極にあるような表現だったように思います。
下の「ナミヤ雑貨店の奇跡」という映画の予告編は、テレビCM等でよく見かけるのですが、やはり主人公が号泣していて、それだけでもうお腹いっぱいでした。飽きた。観ていないけど、飽きた。もういい。いらない。「全世代が涙。」えーと、今は結構です。
ことによると「ナミヤ雑貨店の奇跡」は大変な傑作なのかもしれず、観ないと後悔しかねないほどの名画なのかもしれません。実際に観に行ったら、そう思ったりもするのかもしれない。泣きながら感動の記事を書いたりするのかもしれない。でも私は、予告編を観て「絶対観たくない」と思ってしまいました。
なんとなく、バカにされているような気持ちになるのです。「登場人物にはこういう秘密があってこういう衝撃的な事件のあとに真相を知った関係者が涙する。そんな映画なら、君らは泣くんだろう?涙を流すんだろう?」という思惑で作られた映画を消費しに2000円払って2時間過ごしに行きたくないのです。
クリエイティブな人々でなく、広告代理店が作っている映画という気がする。あ、気がするんじゃなくて、そのままだったか…。一時「感動ポルノ」という言葉が話題になりましたが、これらもポルノ映画みたいなものだと思います。感動欲を処理するための映画群です。こういう映画が増えているのではないか。
映画を観に行く動機として、楽しみたい、感動したい、というのは勿論あります。昨年「君の名は。」を観た時は、鼻水を垂らして映画館からフラフラ出てきたものです。瀧くん…と呟きながら。(感動のあまり当時、2つも記事を書いてしまいました)。
でも結果的に感動するのと、最初から「お前らこれで感動するだろ」というお膳立てが見えてしまうのとでは、全く違う。音楽でも同じで、J-POPを聴いていても「あ、また4度マイナーか」とか「あ、また半音上に転調か」と冷ややかに思ってしまうことがあります。作曲者が安易に便利テンプレを使っている感じ。
ジャズのライブでも、最初ゆったりはじめて温まってきたら速い音符で、次はリズムで遊んで最後はコードソロ、みたいな発想があまりにミエミエだったりすると、どうもガッカリすることがあります。ただし、感動的だった演奏が結果的にそういう起承転結的なドラマ性を帯びていた、ということは普通によくあるので、これが難しいところ。
こういう「感動の公式」に疲れると、デスメタルみたいな起承転結のない音楽を聴きたくなります(そうか、デスメタルって「感動の拒否」が根底にあるのかもしれないな…)。
映画だったら、アウトレイジ。いま私がいちばん見たい映画は「ナミヤ雑貨店の奇跡」ではなく、「アウトレイジ」(「ナミヤ〜」ファンの方、すみません)。「やっぱり愛してる!」とかではなく、「バカヤロウコノヤロウ!」が観たい。心優しい西田敏行でなく、凶暴で極悪な西田敏行を見たい。
映画館を出る時に、かわいい女の子と手を取り合って「感動だったね…」などとナメたことを言いあいたくない。単独で映画館を出て、道にカーッ、ペッ、と痰を吐いてから(※妄想です)爪楊枝をくわえて肩で風を切って歩きたい。映画の後かわいい彼女とインスタ映えする白いケーキをつつくのでなく、屋台で土気色の豚の内臓をアテにしてホッピーを飲みたい。
ニセモノの映画、ニセモノの音楽、ニセモノの感動が街に溢れている。それらは、あまりに増えすぎた。そろそろ北野武に始末してもらうしかない。マシンガンで。バカヤロウコノヤロウ!