私がインターネットをはじめた大昔前からずっと「日本人にジャズは無理」という言説が存在し続けてきました。そういうことを書いているのは日本人で、日本人によるジャズを嘲笑・侮蔑している感じの物言いが、昔からあり、その伝統は今日まで続いているのですが、この現象はずっと興味深いと思ってきたのでした。
「日本人にジャズは無理」。
そのフレーズの分析にとりかかるとすぐにわかるのですが、ここで言う「日本人」と「ジャズ」という言葉は、雑で漠然としすぎているんですよね。で、推測の域を出ないのですが、そういう人達はつまるところ「アフリカ系アメリカ人でないとスウィング・ジャズは無理」なのだと、主張したいらしい。
言い換えると「スウィングすることを許されているのは黒人だけだ」という言説です。アフロ・アメリカンの、ブラックと呼ばれる人々以外、心に突き刺さるリアルなスウィングはできないのだし、やる資格もない、みたいなことを繰り返し言う人達がいるんですね。日本人に。しかもおじいさんだけでなく、結構若い人にもいるらしい。それが現象として面白い。
これはなぜか。なぜ彼等はそういうことを言うのか。どんな根拠でそれを言うのか。私なりに考えてみました。
人種=身体論的な根拠
一つは、身体的な特徴が違うから、という根拠がどうもあるらしい。「黒人の天性のリズム感が〜」みたいな論理が使われる時がまさにそう。これは陸上短距離走では、日本人は絶対にカール・ルイスやベン・ジョンソンやウサイン・ボルトのような世界には辿り着けないのだ、だって筋肉の仕組みが違うんだもの、筋肉のバネが違う、と同じような論理。
まぁアフロ・アメリカンとモンゴロイドとで筋組織の構成が統計的に違ってくるのは間違いないとしても、それでも乱暴な論理じゃないですかね。実際このあいだ日本人の桐生選手が日本人初の100m走で9秒台を出したばかり。桐生選手は統計の外側に出る異常値的な才能だけれども、音楽の世界にだってそういう人がいたっていいし、これまでにもいっぱいいた。
つまり、アフロ・アメリカンとモンゴロイドの身体的な差異は、環境要因と教育とで吸収できる範囲内のものと言えるレベルではないか。
日本人のすごい「ジャズ」ミュージシャンたちはこれまでにもいっぱいいたし、今でもおられます。名前を挙げるとご迷惑がかかるから、書かないけど、たくさんいる。お一人だけご迷惑を承知で言及させていただくと、ソニー・ロリンズと共演されていた増尾好秋さんの演奏を聴いて「日本人にジャズは無理」などと言う人には、あんたバカだろ、としか言いようがない。
モンゴル人の白鵬は立派な横綱だし、ジェロは立派な演歌歌手です。私は彼等が日本人でないから劣った何かをやっているとはこれっぽっちも思いません。2人とも最高じゃないですか。あんたら最高だよ!
社会学的な根拠
「日本人にジャズは無理」と言いたがる人々が拠り所とするであろう、もう1つの根拠。それは、アメリカで白人によって奴隷にされた黒人の気持ちは日本人には決してわからないのだから、そういう人々の伝統音楽であるジャズに我々日本人は究極的には辿り着けないし、辿り着くことを原理的に許されてもいない、というのがあるらしい。
これについては、ある程度の正しさもあるように個人的には感じます。
誤解を恐れずに言うと、ブルースをその必要不可欠な構成要素の1つとするジャズと呼ばれる音楽は、「ホワイト・アメリカによる抑圧からのアフロ・アメリカンの解放」というイデオロギーを、どうやっても内包している可能性があるからです。
白人にアフリカからアメリカに誘拐されてきて、朝から晩までプランテーションで強制的に綿摘み作業に従事させられてきたアフリカの人々が、辛い作業中に、アフリカでそうしてきたように、コール・アンド・レスポンスで歌ってきた。それがブルースの起源になった。そして、それがジャズに流れ込んだ。
だからブルースと同じでジャズにもそういう暗い感じの「血」が入っている。それは拭えないし、別に拭わなくてもいい。
ただ、それを拭おうとすると、途端に何かおかしくなる。皆さん聴いて下さい。このアメリカで生まれたジャズという音楽、素敵でしょう。アフロ・アメリカンの方々と、近代ヨーロッパの調性音楽との融合でこんな素敵な音楽が生まれました。美しいですよね。そんなふうに紹介されるジャズからは、奴隷貿易とか人権蹂躙とかそういうダークな要素が払拭される。
そして、そういう音楽が長らくタワーレコードの棚にCDとして陳列された。タワーレコードの棚に陳列されたジャズのCDたちは「白人によって搾取されたアフロ・アメリカンの労働の果実」とそう違わない、と見る人も多分いる。
そのわかりやすい例がたぶんKenny Gで、パット・メセニーのような、アフロ・アメリカンのフォーク・ミュージックとしてのジャズにレスペクトを持ってきたミュージシャンに罵倒された。
どうも「日本人にジャズは無理」と言いたがる人々は、メセニーがKenny Gを批判したのと同じようなノリで、日本人にジャズは無理、と叫ぶ傾向があるのではないか。
彼等はこういうことに気付く繊細な感受性があるらしく、「日本人がそんなことやるな! 日本人ごときがアフロ・アメリカンの音楽なんかできるわけないんだよ!日本人は黒人の苦労なんか知らないんだからな!それに筋肉だって違うんだ!」と言う。
人種=身体論的な根拠、社会学的な根拠をごっちゃにして、日本人にジャズは無理なのだ、と言う。
私は、そういう人々が基本的に嫌いなのだけれども、彼等の言い分がわかるような気がする時もあります。それは例えば、私は日本のジャズ・ボーカルのことを全く知らないので、完全に推測で書きますが、誰かがビリー・ホリディのトリビュート・アルバムを出すとします。で、その人はアメリカに行ったこともなければ、基本的な英語も喋れなかったとします。
その架空のアルバムをどう思うか。それが「ジャズの遺産」としてマーケティングされていたものなら、私も違和感を覚えるかもしれません。実際に聴くとまた違うのかもしれないけど、「ジャズ」という言葉で説明される音楽をやる場合は、特定の歴史を理解して、それに対するレスペクトを持ってないと、おかしいことをやっている、と言われても仕方ないんじゃないか、とは思います。
日本人は筋肉が〜DNAが〜みたいな話には全く耳を貸すつもりはありません。「日本人にジャズは無理」と主張したがる人々のそういう言説で少しだけ理解できるところがあるとしたら、アメリカでは週末に教会に行く人が多くて(最近どうかは知りません)、教会でのゴスペル音楽の経験がカウントされるところはありそう、ということ。ただそれは身体論的な話ではなく社会学的な話。後学で何とでもなるのであります。
なぜそんなことを言う日本人が一定数存在するのか?
「日本人にジャズは無理」と言いたがる人々は、どうも2〜3人ではないように感じています。様々なメディアを眺めていても、悪意なくさらりと「日本人に黒人のアーシーな、土臭い表現は無理ですから…」などと書かれているのを目にすることがあります。こういう考え方は、何処から出てくるのでしょう。
これは一言で言うと、アメリカによる日本の植民地化の完了を意味するんじゃないでしょうか。単純なアメリカ崇拝。支配された民族のコンプレックス。所詮日本人にはできないのだ、と、日本人が自己卑下するように言う。これはもうまんまと帝国主義アメリカに精神を破壊されてしまった人間による言説ではないのでしょうか。
そして最初に戻ります。「ジャズ」って何。その「ジャズ」って広すぎませんか。曖昧すぎませんか。
「ジャズ」にルーツを持った音楽は、ニューヨークでも、コペンハーゲンでも、ベルリンでも、テル・アヴィヴでも、世界中のあちこちでいま試されているわけです。彼等は自分の音楽を「ジャズ」とは軽々しくは言わないかもしれません。多くの人々は、それを「ジャズ」と呼ぶことによって発生しうる重みを無意識に感じ取っていると思うんですね。
東京にも、そういう優れたミュージシャンはたくさんいると私は思います。軽々しく自分達のことをジャズだとは言わないけれど、ジャズにルーツを持っていて、そこから学んだ人達。そして、アフロ・アメリカンの伝統と経験に基本的な敬意を払いつつ、自分にできる音楽をやっている人達。そういう人達、たくさんいますよ。
そういうミュージシャンたちに対して、「日本人にジャズは無理」と言うのは、ちょっと違う、と思うのであります。
まあとにかく「日本人にジャズは無理」という言説には無理があるというか、そもそも議論の主題にはならないような弱さがあります。「日本人」ってなに。「ジャズ」ってなに。それをきちんと自分の言葉で説明しない・できない人がそういうことを言っても何の意味もないですよ。
コンテンポラリー「ジャズ」ミュージシャンはこういう事象をどう思っているのか
これは推測でしか言えませんが、ジム・ホール、パット・メセニー、ジョン・スコフィールド、ラーゲ・ルンド、マイク・モレノ、カート・ローゼンウィンケル(思いつくままに名前を挙げてみました)、みんなわかっていると思います。ジャズには苦しい歴史があり、アフロ・アメリカンでない自分がそれをやることに伴って皆何らかの困難を経験してきたように見えます(ホールとルンドにはこの主題に関するインタビューもネットにあります)。
でもどうもジャズのそういう暗黒面みたいなものは、ある種「無意識のタブー」になっているような気がします。いまの社会では、そのへんに死体が転がっていたら公的機関が現れてサッと隠します。これはネットでも概ねそう。
「死」とか「暗さ」ばかりが強調されていたらみんな楽しくない、というのがあるのでしょう。それに、ジャズからは絶望や暗さを超える、希望や美しさを感じさせる表現がたくさん生まれた。むしろそちらを強調するのが残された人間の努めというものではないか。それはマーケティングを越えた人間の基本的な善なる営みではないのか。そういう考えは、あってもいいと私は思います。
ジャズと呼ばれる音楽が、元々はかなり暗い、負のエネルギーに(部分的にではあっても)裏打ちされている限り、「日本人にジャズは無理」みたいなことを言う人は、これからも減らないと思います。
でも、やはり言いたい。ジャズと呼ばれた音楽のダークサイドを伝えるのに、日本人は、中国人やデンマーク人やイスラエル人同様、適任ではないのかもしれない。
でも、ジャズが残した別の次元、アフロ・アメリカンの人々の 苦悩をルーツとする美しさ を表現することは、人類誰にもできるはずだし、その行為にはどれも価値がある。その価値を貶める必要は、何処にもないんじゃないか。そう思うのであります。