その夜、ぼくは少し元気がなかった。そこでぼくは早速「磯丸水産」に向かい、ホタテの殻焼きを注文した。ある程度の年数を生きてきて、ぼくは理解したことがある。大抵の気分の消沈は、うまいものを食って酒を飲めば解決する。たとえばホタテ、そしてウーロン茶割りでほぼ全ての問題が解決すると言っていい。この優れたライフハックを可能なら多くの人に伝えたいものだ。ブログなどをはじめるといいのだろうか。
だがぼくはその夜、いつも以上に疲れていたのかもしれない。ホタテを食べてウーロンハイを飲んでもなかなか陽気な気分にならない。こんなことはかつてなかった。ぼくは急に不安になった。まさかこれは男性更年期障害の…
考えすぎるな…酒が足りていないだけだ…
振り向くと隣にマイルスがいた。顔面の半分を覆うほどでかいサングラスをかけ、指輪だらけの指の間にシガレットをはさんでいる。吐き出される有害な副流煙がぼくの顔面を直撃する。
もっと酒を飲め…お前は、飲み足りていない…That’s it(それだけだ)…
そうかもしれない。実際、今日のウーロン茶割りはなんとなくアルコールが少ない気がする。もっとこう、ガツンと酔ってみたい。少し強めのウーロンハイ。そんな微調整、スペシャルオーダーができたなら…
だが、ぼくは知っている。世の中は効率を優先するあまり融通が効かなくなってきていることを。磯丸水産もまた例外ではない。全席に注文を自動化する人間味のない冷淡なタブレットが導入され、店員さんとの親密なコミュニケーションの機会は失われた。「ウーロンハイ、濃いめでお願いします」などと声をかけても、「ご注文はそこのタブレットでお願いしてるんで!」とやり返されるにきまっている。つまらない世の中になったものだ。
お前のために、ウーロン茶割りを注文してやろう…少し、濃くしたらいい… 俺は、「ホッピーの薄め」にしておく…
マイルスが注文用のタブレットを手に取り、手慣れた様子で画面をタップしはじめた。意外だった。マイルスは三ヶ月前にこのタブレットを酷評し、呪詛の言葉を吐いていたのだ。
「マイルス、時代は変わってしまったんだ」とぼくは言った。
「全てが冷たく機械化されてしまった。1か0か。そんなつまらないデジタルなお店に、磯丸もなってしまったんだ。メゾフォルテもメゾピアノもない、融通の効かない退屈で平坦な表現に、この世界は覆われつつあるんだ…タッチアクションのない電子ピアノ、ダイナミクスのない演奏みたいなものだよ…ぼくがいまいち元気がないのは、きっとそのせいなんだ…」
Shut the fxxk up…(黙れ…) お前は何を言っている…これを見ろ…
マイルスがぼくの目の前にタブレットを突きつけた。ぼくは目を疑った。
いいか…アイソマー(Isomar, =磯丸水産)の強み、それは奴等の絶え間ないカイゼンへの意志にある…昨日できなかったことを、明日はできるように改善する…そんな当たり前の努力のおかげで、お前はいま『ウーロン茶割り 濃いめ』をオーダーすることができる…そして、奴等はこのことが顧客満足のために重要であることをよく理解していた…微調整ができること、柔軟な対応が可能であることが、カスタマーに愛されるための必須条件であることを…やはり俺が思った通り…この店は優秀だ…
評論家の評価など気にするな。信じた道を歩め…俺の『TUTU』は当時酷評されたが…こうやって聴くと、悪くないだろう? 正当な評価を得られるようになるまで…何でもある程度の時間がかかるものだ…
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