何としても最初に書いておかなければならないのですが、私は恐らくこのブログを読んで下さっている方の誰よりも高い頻度で「ジャズ」と呼ばれる音楽のライブを観に行っていると自負しています(様々なライブに足を運んでも、誰にも会わないことが珍しくない)。そしてジャズと呼ばれる音楽が、やっぱり好きです。
しかし、この国でジャズと呼ばれる音楽の衰退が著しいと感じているのは、私だけではないでしょう。「スイングジャーナル」という雑誌はだいぶ前に消えて(改名して)、「Jazz Life」という雑誌も最近は大幅にページ数が減ってしまい、特集記事も恐らくプレイヤー人口が多いと思われるジャズギター中心です。中身もだいぶ薄くなった感じが否めません。
私はよく耳にしてきました。「若い芽は早目に摘んでおけ」という冗談を。プレイヤーとして生活を成立させる必要のある人々が、限られた椅子を死守するためにそのように言っている。将来のある若いミュージシャンに対する「愛情」を込めてそのように言っているケースもあるようですが、これは、私にはあまり心地よい表現ではありません。
何故なら私自身、大学のジャズ研時代にこのような処遇をされた経験があるからです。「あいつはいまのうちに潰しておけ」という感じの、一種のいじめに近い扱いを、とても小さい共同体の中で受けた記憶がなんとなくあるのです。あれは何だったのだろうと時々、思い出します(※ただしこういう体育会的な話は米国のジャズシーンでも古くからあるようです)。
そしてジャズを教えて下さる先生たち。私がこれまで師事してきた日本の先生方の中には(どなたも心から尊敬しています)「今日何をやるんだっけ?」という言葉でレッスンを開始される方が少なくありませんでした。そういう方があまりに多いので、だいぶ慣れっこになったのですが、たとえば以後の私の職業人生で、ミーティング開始前に「えーと、今日何の話するんでしたっけ?」という発言はありえません(そんなことを言う人は誰も信用しない)。
今日何やるかは、今日決めよう。そういう態度もあるのでしょう。だってジャズだからね。インプロヴァイズするのさ。そういう説明も何度も聞いてきました。同時に、なんでこうなんだろう、という気持ちも持ってきました。
とあるプロミュージシャンの方は、こうも言いました。「ぼくの演奏ね、それYouTubeに上がってるから、聴いてね。CDは買わなくても良いですよ。あと、これあげる。ジェシの新譜だよ…」。その親切心は本当に有難く、感謝の気持ちで一杯です。しかしその新譜を出したばかりのジェシはどんな気持ちになるのか。
さらに、私のような、プレイヤーとして楽器も演奏するけれどもまずジャズと呼ばれるこの音楽が好きであるという人間が、とあるギタリストの演奏に感動し、この人は素晴らしいですよ! という記事を書いたりします。すると決まって届けられる反応のひとつに、「あんな奴の何処がいいの? お前耳が腐ってんじゃね?」というものがあります。
そこには「ファンが純粋に愛を共有し、伝播する」というコンセプトがない。あるのはまず批判。他者を批判することによって自我を保全する、という不思議な心の動きもあるのでしょう。誰かが褒められると、面白くないと思う人がいるらしい。これは本当に不思議というか、残念なことでもあります。
自分の好きなものを好きであると表明することが、これほど困難なことだとは、私はこのブログをはじめるまで思いもしませんでした。私はあの人のギターと音楽が大好きだ。ただそう書くことによって、思いもよらない攻撃を受けることがあるとは思ってもいませんでした。
そういう心の持ち主が集まっているジャンルの音楽に、どんな未来もあるわけないだろ。と思います。
ほとんどのジャズ・ミュージシャンは、セルフ・ブランディングに興味がないようです。自分自身をどのように売り出すか、というマーケティング的な側面にも無頓着です。ほとんどの方が、出たとこ勝負で、その時その時でアベイラブルなメディアに、いついつにライブがあるので来てください、と書き込んだりしています。この点で例外的な人はロバート・グラスパー。
ジャズミュージシャンたちよ…私達は自分のキャリアを出たとこ勝負で作り上げるのをやめるべきだ…即興はステージでの演奏のために取っておくといい…計画を持て…事前に考えを巡らすんだ…一日の終りに、音楽は君にとってのビジネスとなるのだから…
この国でジャズと呼ばれている音楽ジャンルに、この先明るい未来は待っているのでしょうか。何というか、みんな適当すぎるんです。「余計なお世話だ」と言われるかもしれないですが、「いろいろ適当すぎる」ミュージシャンのライブなんか誰だって二度と行くはずがない。時間は有限だし、聴くこちら側もかなり集中して本気で聴いているのですから。
それでいて、よく見聞きする言葉があります。「なぜ人々はジャズのライブにやってこないのだろう?」というものです。でも、それは「なぜ」ではないと思います。意識的に活動されているミュージシャンのライブには、いつもファンが集っています。
この文脈で、日本ではかなり例外的と思われるジャズ・ギタリストがいます。それは小沼ようすけさんです。
小沼さんは日本に居住されているけれども、ご自身の表現を日本的な共同体に限定するという道は取られていないように見えるし、どのくらい意識的にそうされているかはわからないけれど、ジャズ的なギター音楽の価値、そしてそれに関わるご自身の価値を高めようと、積極的なセルフ・ブランディング活動をされている、珍しい方ではないかと感じます。
ジャズは素晴らしいですよ。僕はいまグアドループの人々とこんな音楽をやっています。刺激的で面白いですよ、と、様々なSNSチャネルで発信されています。そこにはスタッフ(理解者)の方の参与とご貢献もあると思うのですが、この姿に私は感動します。ご本人の意志がなければこうした発信は行われていないはずですから。
そういうことをやられているのは、日本のジャズ・ギタリストとしては、小沼ようすけさん以外に私は知りません。そのせいもあって私は俄然小沼さんを応援したくなるのです。というか、小沼さんのライブ会場がいつも満員なのは、氏のこうした地道な活動があるからなのだと思います。小沼さんが単にイケメンだからなのではありません(多分)。イケメンな上にさらに努力されているのではないでしょうか。
勿論、誰しも自分が生き残るのに必死なところはあると思います。ジャンルではなく、自分自身がまず生き残らなくてはならない。そういう気持ちもあるのでしょう。誰だって、ジャンルを背負う必要なんかない。自分自身のために音楽をやる、それだけでいいはず(プロだろうが、アマだろうが)。でも、自分自身が生き残れば、楽しければそれでいい、自分自身がなんとなく逃げ切れればそれでいい、というふうに見えるミュージシャンが、年齢を問わず、かなり増えてきているように私には見えます。
そういう状況下で、「ジャズと呼ばれる音楽はこの国で生き残れるのだろうか」と考えると、それは無理だろう、と素直に私は思います。でも、ジャズが日本で、または世界で下火になったとしても、たぶん誰も困らないだろうという気持ちがあります。本当に必要とされているのなら、必ず何らかのかたちで生き延びる。そうでないものは、必ず消える。それだけのことだと思います。