「物語」と「小説」と呼ばれるものの関係。ジャズ・スタンダードとそれを即興で演奏することの関係。ここには見過ごせないものがあるとよく思います。
まず言葉の定義から。「物語」とは何か。ここでは、小説や映画において(または人生でも良い)「物事を先に進める力」とします。英語に”drive”(駆動力)という言葉があるのですが、「物語」は小説や映画、そして時には私達の人生を前に進めるドライヴィング・フォースとなっていることが多々あります。
貧しい若者がある女性に出会って恋に落ちた。拳法の師匠が悪者に毒殺されて復讐を決意した。生き別れになっていた弟と再会した。修行の途中、魔法使いに出会い新しい技を身に付けた。朝、目覚めると毒虫に変身していた。これらは全て「物語」で、「物語」には古今東西普遍のパターンがあり、数は無限ではない。
一方「小説」(それは映画でも良いのですが)とは何か。それは「物語」を駆動力(エンジンやガソリンのようなもの)として内包しつつ、「物語」以外の他の要素が非常に重要、というか、その「他の要素」と「物語」とがどのような関係を持っているかが重要視される表現形式である言って差し支えないでしょう。
ではその「他の要素」とは何か。乱暴な表現かもしれませんが、ここではそれを「描写」という言葉で呼ぶことにします。「描写」とは「詳しく描くこと」ですが、例えば小説という表現形式では、「物語」という普遍的な構造を、その特殊性(例えば19世紀のロシアとか)において描写していくことなります。
貧しい若者がある女性に出会って、恋に落ちた、という物語の場合、その貧しい若者はどんな性格で、どんな家族構成で、どんな村に住んでいるか。その無気力な大学生の口癖は「やれやれ」なのか。チェコのプラハを想起させるその街はどのような迷宮的構造を有しているのか。
私達が「優れた小説」に感動する場合、それは多くの場合、ある程度パターン化された物語構造を有しつつも上述の「描写性」が優れていたり、パターンを打破する仕掛けがあったり(それも1つの類型であるにせよ)、また非常に稀な場合には「物語」という強力なシステムを内部崩壊させるようなものだったりします。
ところで「物語」を駆動力として持たない小説や映画、誰もが知っているパターンを有さない作品は多くの場合「前衛的な作品」と呼ばれることが多いようです。また、本当は物語構造を有しているものの、その影響力が極端に低減されているため、一見したところ「前衛風」に見える小説や映画も存在します。
そういう作品群は、ジャンルを問わず商業的には大体あまり人気がありません。人は多くの場合「自分が知っているあの物語をもう一度体験したい」という欲求を持っていて、芸術作品にもそれを求めることが多いからです。
「物語」は非常に強大な力を持っていて、私達はまずその影響力から逃れることができません。家の外に出る。それだけで既に物語です。「動き」が発生すると、物語が発生します。物語にはいくつかの基本的な類型があり、その変種は有限です。私達の人生もまた、ある意味「物語的である」と言えるでしょう。
誰かが死んだら、泣く。誰かが死んでも泣かない。結婚して子供が出来て、その後離婚した。人生に絶望して全てを捨てて、旅に出た。ある日ウェス・モンゴメリーを聴いて、これしかないと思った。泣いて笑って生まれて死んだ。全て物語です(良くも悪くも)。
このあたりで音楽の話に移りましょう。
Real Bookでも「黒本」でも良いのですが、一般に「リード・シート」と呼ばれるものがあります。テーマと呼ばれるメロディと、(大体の)コード進行が書かれているあの譜面です。これは上で書いた「物語」と非常に良く似た性質を持っていると思います。
突然不穏な知らせが舞い込んだが、それは誤報だった。トニック・ディミッシュのある曲とかそういう感じです。トニックの安定した日々が、ある日ドミナントの闖入によって乱された。トンネルをくぐると雪国だった(転調)。「機能和声」には現状を前に進める力が備わっていて、音楽はそのように前進します。
リード・シートはやや不思議な外観をしています。テーマには装飾音がなく、コードにも詳細なテンションが記載されていないことが多い。そもそも私達がよく知っているコード進行と違うこともある。リード・シートは、いわばその楽曲の純粋形態、イデア、または類型化可能な「物語」であると言って良いでしょう。
そのリード・シートを基に、私達ジャズ愛好家は即興演奏をします。これは小説家が「描写」していくのと似ています。違っているのは、小説家の場合はたぶんやり直しや書き直しができるけれど、ジャズ・インプロヴァイザーは「ごめん、今のなし」と容易には言えないところでしょうか。
即興演奏時の「描写」にも様々な次元があると思います。グレース・ノート(装飾音)を加味してテーマをフェイクするレベルに始まり、リズムを変えたり、コード進行を別のものにしてしまったり、リード・シートに書かれたテーマ・メロディが有する特定のインターバルにヒントを得て即興を展開したり。
リード・シートと即興演奏の関係は、「物語」と「小説」(または映画)のそれに非常に良く似ていると思います。
ところで「物語」は何か悪いものなのか。価値はないのか。そんなことはないですよね。スタンダードのリード・シートには、いかにコード進行がパターン化されていても、メロディがシンプルでも、そこには「桃太郎が鬼を退治しました」というものとは別種の、独特の「輝き」があると思います。
(というか「桃太郎が鬼を退治しました」という物語自体、特段悪いものでもないでしょう。類型そのものの良し悪しを言っても仕方ないのですが、「あのパターンは好きだ」というのは誰にもあるでしょう)
機能和声的なコード進行を持たない曲、パターン化できるフォーマットを持たないジャズ演奏は一般にフリー・ジャズと呼ばれると思います(その意味でオーネット・コールマンもデレク・ベイリーも私にとってはフリー・ジャズではなく、普通に美しい最高のジャズです)。
「枯葉」でも「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」でも良いのですが、そういう誰でも知っている有名なスタンダード曲を演奏するというのは、一種の厳しい戦いだと感じます。ものすごくシンプルな物語で、それを「普通に」演奏しても「ふーん」で終わってしまうこともあります。
かといってそもそもシンプルな構造のこれらの楽曲に対して単に複雑な方法論を適用して弾いても、説得力のある演奏ができるか。
そうでもない。複雑化すれば良いというものでもない。
私がいま演奏する曲は、世界にこの1曲、「枯葉」しかない。その後に何を演奏するかはとりあえずどうでも良い。この「枯葉」をいま、どう弾くか。このあまりにも単純な(そして美しい)物語を、自分はどのように描写していくことができるか。自分にはこの人生しかない。都合よく生まれ変わることもできない。
この場合、正解があるとしたら、それはどんな態度だろうか。その物語への「従属」か。それとも「破壊」か。「軽蔑」か。「絶望」か。
それらのどれも良い音楽をもたらしてくれそうにありません。何か一つの言葉(または概念)があるとしたら、それは「拮抗」ではないだろうか、とこれを書いていて思います。何か敵対的に、お前と俺とのどちらが優れているか証明してやる、という不毛な姿勢から遠く離れ、その物語、ストラクチャーと対峙する。
言うほど簡単なことではないと思いますが、「拮抗」。スタンダード曲を演奏するということは、最善を尽くして拮抗することではないか、と思うのでした(但し英語の “Antagonism” は「敵対」という観念を含むのでちょっと違う。あくまで単に互角に張り合うものとして)。