ここ数年、バックグラウンド・ミュージック(BGM)としてジャズを聴くということが本当に少なくなってきました。ジャズに限らず、BGM自体が苦痛に感じることが多いです。
音源を聴く時は、誰かのソロを採譜する時だったり、集中してリズムを聴きとる時だったりと、とにかく「練習」と関係のある聴き方が多くなりました。
勿論、純粋な愉しみとして好きなミュージシャンのアルバム全体をゆっくり聴く、好きな曲を繰り返し何度も聴く、ということもします。ただ、友達にメールを書きながら、皿洗いをしながら聴くというようなことがなくなってきました。
例えばこのブログを書きながら大好きなオーネット・コールマンのアルバムを聴くのは難しいです。気になってしまって、集中して聴きたくなる。そしてどちらにも集中できないのがストレスになる。だからBGMは聴かない、という感じです。年々その傾向が強くなってきました。
最近 “Primacy of The Ear” (Ran Blake) という本を読みました。これが本当に面白い本で、即興演奏を志す人間にとっていかに「耳」が大事か、それをどう育てるかについて様々な洞察が記されているのですが、この本に “Background Listening” という項目があり、次のようなことが書かれていました。
隣人のラジオや病院の待合室での音楽は、無視しても構わないバックグラウンド・サウンドである。これらは単なる環境ノイズであり、よりひどい場合にはノイズ公害である。(中略)こうしたノイズがあなたの音楽をより良い方向に変えることはない。(中略)
より生産的な種類のバックグラウンド・リスニングとは、あなたが何らかの活動をしているあいだ音楽を流しつつも、ある程度のレベルでは意識が関与している状態である。皿洗いや床掃除の最中、音楽を流していれば、音楽の概要やフレイバー程度は得られる。
その時あなたが聴いていて、一緒に口ずさみ、音楽に合わせて踊るようなら、あるいは別のかたちでその音楽と関わりを持っているなら、その作品について何かは学んでいるのである。
この種類のバックグラウンド・リスニングは曲についての良い全体像を与えてくれ、後でより注意深く聴こうという気にさせてくれる。(中略)
最近、私はバックグラウンド・ノイズにしかならない音楽をかけていたくない。そうすると練習の効率が悪くなるし、本当に聴く能力が衰えてしまう。音楽やノイズが流れている限り、耳は働いてしまう。私は自分にとって大事な音楽を聴くために、聴く機会をセーブしておきたいと思うのだ。
これを読んで面白いと思ったのは、BGM的に聴いていたとしても「その音楽の何か」についての学びは発生しうる、という点です。集中して聴けていなくても、その音楽の雰囲気、特異なフレーズやリズムが頭に残るかもしれない。後で「あれは気になる、ちゃんと聴いてみよう」ということは確かにありそうです。
BGMとして聴いている音楽の何が自分の中に残るのでしょうか。それはその音楽の中で最も強い部分、エッセンスではないか、とも思います。これはこれでちょっと面白い聴き方かもしれません。
最近はラーメン屋でジャズが流れていたりします。例えばそれがジャズ・メッセンジャーズだったらあまり驚かないのですが、ジョン・コルトレーンが流れていることがありました。そういう状況を歓迎する人もいるかもしれませんが、個人的には「コルトレーンさえ、もう記号なんだ」とやや衝撃を受けました。
“A Love Supreme” を聴きながらチャーシューやメンマを齧るというのが、どうもかなり難易度の高い作業をやっているような気持ちになります。コルトレーンなら味わえるかもしれませんが、これがセシル・テイラーやデレク・ベイリーだったら全く味がしない自信があります(なら、慣れの問題なのか!?)
とはいえ、ここ数年ずっと否定的な印象を持ってきた「BGMとして音楽を聴く」という行為にも、何か学ぶことがあるのかもしれない、と思ったのでした。実際ディスク・ユニオンなどにいると、全く知らないミュージシャンの “Now Playing” CDに突然ハートを鷲掴みにされ、レジですかさずゲット、ということも。
この記事は試しに、久しぶりにBGMを流しながら書いてみました。流しているのはノーマン・ブラウンのベスト盤です。カテゴリー的にはスムーズ・ジャズと言われますが、ジャズとは関係がないと思います。でも、良い音楽だと思います。ジャズでなくとも、良い音楽なら好きです。