先日、海は燃えているという映画を観ました。イタリアの小島に、アフリカ諸国からの難民が命を賭す思いで漂着する。その島には、そうした事態とは全く関係のない日常があり、人々が静かに暮らしている、というドキュメンタリー映画です。下はその予告編動画。
この映画を観終えて、戸惑いの混じった複雑な気持ちで劇場を後にしました。私はこの映画に感動したのか、しなかったのか。そうした問いに答えられるとも思わないし、答えたいとも思いませんでした。しかし、映画館の入口には様々な「文化人」や宗教家、アーティスト、各界の有力者たちによる賛辞の言葉が紹介されていました。
彼らは一様に、この映画はすごい、感動した、と言います。その論調は一様にヒューマニスティックな観点からのもので、博愛を中心とする西欧キリスト教的価値観に根付いたものです。
私にとってその光景は、何処か奇妙なものに見えました。
この映画に対するコメントを書いたそうした著名人のことを、あんたらバカじゃないのかと思ったとか、そういうことではありません。もしそうだとしたら、それは私自身の傲慢さ以外の何物も意味しないでしょう。
それでも私は、思ったのでした。このドキュメンタリー映画は、日本人の私たちに理解できるものなのだろうか。あの島に住む少年にはわかるかもしれない。しかし私達日本人に、これは本当に受け止められるのだろうか、と。
映画の中で平穏な日常生活を送っているイタリア人少年・老人たちに感情移入したとしても、この映画を理解できるのだろうか。7日間、ぎゅうぎゅう詰めの船底に押し込められて脱水症状になることもなく、灼熱のサハラ砂漠を横断する必要もない私達日本人。そうした私達自身と、あのイタリア人少年、敬虔なキリスト者である老人たち、医師を置き換えて観ることは、できるのだろうか。
でも、それはこの作品を受容するための、本当に正しい方法なのだろうか、と私は疑問に思いました。この映画を撮影した監督の意図、イタリアの離島の平和な日常に、どう考えても日常ではありえないような暴力と死、恐怖が恒常的に隣接しうるというコントラストを描くということ。それは私達日本人にとって、理解が可能な内容なのだろうか、とやはり疑問に思いました。
私自身のとりあえずの結論は、現在の日本人、いや、その言葉で語弊があるなら、現在日本人である私という個人にとっては、これは絶対に理解できないものだし、「これは理解できる」などといった安易な共感を示してはいけない映画だと思った、ということです。平和な国・日本で、喉が渇いたら水を飲めてお腹が空いたらおいしいものを食べられて、ワイドショーで第三世界の不幸について同情的に語る余裕がある私達(皮肉ではありません)に、この映画を「理解できる」と言うどんな資質があるというのか。
この映画を観終わった後に、私は「ブルース」のことを思いました。ジャズという音楽の必要不可欠な構成要素となった音楽であるブルース。
諸説あるものの、アフリカから奴隷として強制連行されてきた人々が、北米大陸で辛い綿摘み作業に従事している時、故国のリズムや音程、応答形式を思い出しながら紡いだ(と私が理解している)ブルースという音楽(※この映画にも、ブルース発祥の起源としか思えない長い尺がありました。「サハラ砂漠で俺達は殺され、犯された…海は人間が渡るところじゃない、海は道じゃない…」等)。
いま、例えば日本国に住む私達は、特に衣食住の心配をすることも、生命の維持に不安を覚えることもなく、10万、20万、30万円のフェンダー・テレキャスターを買うことができて、中野や高円寺のライブハウスでロバート・ジョンソンやジョン・リー・フッカーの歌を歌うことができる。
そういう状況を馬鹿にする人は多い。でも私自身はそれが滑稽だとは思いません。日本人にブルースなんかできるのか。日本人がブルースの何を理解しているというのか。お前に黒人奴隷の何がわかる。そういう声があるのはわかります。それでも、どんな形でも、歴史が伝承されているということ。そして、それが伝承される価値がある歴史であるからこそ伝承され続けているということ。そのことに意味があると思います。
この映画に寄せられた様々な賛辞を見て、仮にこの映画についてコメントするような依頼があったら、私はどんなコメントを口にするだろうか、と考えました。答えは簡単でした。私は単純にコメントを拒否するでしょう。対価なども絶対に受け取れない。勿論、私のような一般人に「この映画についてコメントをお願いします」というような依頼が来るわけはないのですが、一般人であれ、著名人であれ、この映画について一行コメントのようなものを残す人は、信用できない、と私は思ったのでした。
勿論、そうした著名人の方々がどのような依頼を受けてコメントを残したのか、経緯は定かではないのですが、映画館の入口に記された彼らの言葉は、私の目には本当につまらない、空虚なブルース・リックの集合体のように見えました。
ブルースって、そんなんじゃねぇだろ。うまいとかへたとか、そういうことじゃない。そうじゃない。でもあんたらのブルースは、それでいいのか。本当にそれでいいのか。それは自分の心の中から出てきたフレーズなのか。それとも教科書から拾ってきたフレーズなのか。どっちなんだ。何回弾いたんだ。まだ100回くらいしか弾いてないだろ。最低でも1万回弾かないとダメだろ。と思ったのでした。
If you don’t know what to play, play nothing.
何を演奏したら良いのかわからなかったら、何も弾くな。
– Miles Davis
世の中には、記号化してはいけないものがある。記号化される時に失われるものがある。しかし記号化しないと残らないものがある。何かを記号化しなければならない時は、そこに最大限の尊敬がないといけない。そういう表現でないといけない。でも、そういう表現は本当に難しい。
映画を観終えた時に抱いた、戸惑いの混じった複雑な気持ちを反映するように、歯切れの悪い投稿になってしまいました。