海外のギタリストが時々、”…like someone like Pat Martino.” という言葉をポロりと口にすることがあります。「パット・マルティーノのような人(みたいにさ)」。この言葉を耳にする度、何とも言えない不思議な気持ちになるのは私だけでしょうか。
Photo by Tom Beetz / CC BY-SA 2.0
例えばジョン・スコフィールドは何かのインタビューで、自分はオルタネイトでフル・ピッキングができなかった、パット・マルティーノのように やろうとしてもできないことを悟った、だからレガートなプレイに方向転換したんだ、と語っていました。その時の彼の口調は何とも不思議な感じでした。唐突にマルティーノの名前が出てきた感じ。
(そして「ああ、言うんじゃなかった…」という気持ちがジョンスコの顔に表れていたようにも。それは私の考えすぎかもしれないけど)。
そしてヴィック・ジュリス。パット・マルティーノのような人みたいに 音符を詰め込まなくたっていいんだ、と教則動画で言っていました。あれ、もしかして軽くディスってんのかな、とも思ったのですが、ジュリスおじさんがそんな意地悪な人なわけがない(彼はマルティーノに一時習っていたと聞いたこともあります)。
ジョンスコもヴィック・ジュリスもパット・マルティーノとは良い友達らしいんですよね。だから彼らが「パット・マルティーノみたいに…」と口にする時、それは決して貶しているわけではないはず。でも、どんな気持ちなんだろう。マルティーノの名前を口にする時、みんなビッミョ〜な空気なんですよね。バツが悪そうというか。
思うに2人とも一時はパット・マルティーノにガツンとやられて、そういうプレイを目指したのではないか。でもそれは無理だというのがわかって、自分の道を探すことにした。そういうことじゃないかな、と私は思っています。
“Someone like Pat Martino” 的な言葉は、日本の有名なジャズ・ギタリストの口からも度々耳にしたことがあります。多くの場合、少しネガティヴな文脈で口にされると思います。あのシーツ・オブ・サウンド的な、空間を埋め尽くすようなプレイに対して、少し批判的なニュアンスで、「弾きまくることは悪いことだ」の代表例のような感じで。
故・高柳昌行氏がマルティーノを酷評していたのは有名な話だけれども、氏以外の有名ギタリストもマルティーノ批判をすることが多いと思います。でも多くの場合、その方々も若い頃にはマルティーノをコピーしていた時期があったり。大嫌い、と言いながらも「でもなぜそこまでお詳しいのですか」ということが多々あります(笑)。
でも、何となく何故そうなるかわかるような気もします。私自身マルティーノは20代かなりハマっていろいろコピーしました。同じ流暢さで弾けるようにはならなかったけど、”Along came Betty” とか今でも大好き。同時にマルティーノが嫌いになった時期もありました。またこのフレーズか、それどうなんだ、という気持ちになったのです。
でもそういう気持ちは、マルティーノ以外にも、パット・メセニーに対しても持ったことがあります。そういう時期があった。でも今はそういうのを通り過ぎて、マルティーノもメセニーもあらためて大好き。あれは何だったんだろう。好きになりすぎると一度嫌いになるのかな(笑)。
アンビバレンス (ambivalence) という言葉があります。相反する感情、という感じの意味でしょうか。人はパット・マルティーノのことを思う時、アンビバレントな感情を持つことが多かったりするのかな。あんなふうに弾けたなら、とまず思う。で、真似してみて、これは無理だ、と思う。その後、一度嫌いになる。
でも心の底では、すごい人だというのがわかっている。言葉には出さなくとも、(悔しいけど)マルティーノはすごい。かなわない。そう思っている方が多いんじゃないか、と最近思うようになりました。時々賛否両論があっても、やはりとんでもなくすごい人、別格な人だという前提がみんな気持ちの底にあるんじゃないか、と。
あまり人気がないかもしれないけど、弾きまくっていないマルティーノのアルバム、マルティーノのオリジナルとか結構好きです。”The Maker” なんか良かったな。なんとも言えないリリシズムがあります。いつものマルティーノ・フレーズだし、懐かしい感じのジャズだけれど、それがいい。”This Autumn’s Ours” とか最高。
マルティーノはデビュー当時に既に完成されすぎていたのだと思います。クラシックにおけるモーツァルトのように。最初から完成されすぎていたので大きく進化する必要がなかった。最初から全てが備わっていた。そのことに私達はたまにジェラシーを覚えたりするのでしょうか。
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