過去、これでもない、あれでもないと様々なギターを試してきました。ジム・ホールに憧れES-175を、メセニーに憧れアイバニーズを、カートに憧れD’angelicoをと、色々なギターを試してみました。アンプ然り、ピック然り、弦然り。
しかしある時、ふと気付いたのでした。
どんなギターを弾いても、自分の音しかしない。
それは、本質的には良い気付きだったように思います。その時点での自分の音色が好きでも、嫌いでも、とにかくどんな楽器を使っても、結局は自分の音しかしない。そして、確実に自分の音がする。
不思議なことですが、腕の長さや、左手の指の太さ、右手の指が動く早さ、ピックが撥弦する角度、等々、これらの「身体性」を大きく変更することは、多分私達には最終的にはできなくて、「◯◯のような音を出したい」と思っても、その人の音は絶対に出ない。
出るのは自分自身の音だけで、他人の音は決して出ない。
このことに気付いてから、私はあまり新しいギターを買わなくなりました。とはいえ時々は買ってしまったりするのですが、基本的には今使っているギブソン社製のフルアコとセミアコがあれば困らない、という感じです。
音色以外の話になりますが、自分自身であることから逃れることはできない、と気付いてから、以前にも増して「コピー」をたくさんするようになりました。
一時期、自分が好きなミュージシャンのコピーをすればするほど、自分が憧れているそれらのミュージシャンたちに、いわば「飲み込まれて」しまう感覚があり、「自分自身がなくなってしまうのではないか」という危惧がありました。
ただ、そんなに簡単に「自分自身」はなくならないのだ、とある時気付いたのでした。心配しなくてもそう簡単には消えない(消えてくれない)。良し悪しは別として、自分自身の音色、自分自身の基本的な音楽、というのは決して消えない。
どんな楽器を使っても、自分自身の音しかしない。自分自身の音がする。誰に影響を受けても、自分自身の「歌」は決して消えない。だから、どんどん影響を受けていい。
「個性」というものは、ある人にとっては出発点であり、ある人にとっては到達点だ、と、ある著名なギタリストの方がおっしゃっていたように思います。
個人的には、「個性」は出発点ではないかと感じています。「個性」は既にあり、自分自身の「個性」に気付き、それを観察し、如何にそれを磨いていくのかが大事なのではないか、と最近思ったりするのでした。