最近ビル・フリゼール病が再燃してYouTubeにある彼の演奏をあれこれ観ていたところ、ちょっと懐かしいものに遭遇しました。
John Zorn & Naked City with Yamatsuka Eye, ギターはビル・フリゼール。こういう音楽に全く興味がない人もいるかもしれませんが、私は痺れてしまいます。
何がジャズで何がジャズでないかという定義に意味はないとしても、私の中ではこれは完全にジャズ。Nothing but Jazz。ウィントン・マルサリスやマーク・ホイットフィールドよりもずっとジャズ(その2人が嫌いというわけではありません。ほとんど聴かないけど)。
現代のジャズは洗練に洗練を重ねて、その結果、冒険的で新奇なハーモニーを、美しく・なめらかに・連続的にサウンドさせるという大きい潮流に至ったと感じます。それはそれで魅力的なのですが、「それ以前のジャズ」はもっと違った姿をしていたと思うのです。
作曲家でピアニストの高橋悠治氏が、かつて著書で次のように書いていました。
一九三〇年代以降のジャズは、まったくちがうところへいってしまった。にがい音色としてのコードの衝撃力のかわりに、なめらかなコード進行(つまり古典和声)、画一化されたスウィング、身についた芸ではなく技術にすぎない即興、個人のスタンド・プレー。破壊力は、こうして正反対のものに転化する。普遍化のみかけは、ジャズが少数の側にたってこその真実であることをわざと見おとさせるためのカラクリではなかったか? こうして、ジャズの影響力はうしなわれた。
一方で、この変質した武器しかもたず、少数の立場をつらぬこうとするものには、つらい試練が待っていた。公式を極度に複雑にするチャーリー・パーカー流のやり方か、一音ごとにたちどまって衝撃力をみがきあげるビリー・ホリデイの声。どちらも行為する本人の上に緊張がはねかえり、音楽どころか、生命自体までも破滅においやることになる道だった。かれらの軌跡がどんなに伝説化されようと、体験的な秘境主義をひきずっているかぎり、ジャズは消滅に向かうだろう。「音楽のおしえ」高橋悠治 1976年
ジョン・ゾーンの音楽も「体験的な秘境主義」と完全に無縁ではないかもしれないですが、でもとても楽しそうですよね。破滅に向かって疾走するわけでも、一音入魂というロマンティスムでもない。ジャズというジャンルのことなんか多分考えていない。そんなことに興味も責任も持ってない。それでも「連続性」ではなく「断絶」を武器に、時にはジャズの記憶を自由に放り込んでくるこの「管理された偶然」のカット・アンド・ペーストには本当にジャズを感じるのです。
ジョン・ゾーンはマサダとこのネイキッド・シティ名義の作品以外あまり知らないのですが、やっぱり最高の音楽です。ビル・フリゼールが最高のマッチング。もしかするとジャズの自然な進化はオートネット・コールマンやジョン・ゾーンだったんじゃないか、と思わされます。ハービー・ハンコックやキース・ジャレットでさえ、最高ではあるんだけど、ヤマンタカ・アイのシャウトとこの仲間たちの前では、何か霞んでしまう。