映画についての投稿です。先日、話題の映画「スリー・ビルボード」を観て感動しました。この記事で紹介してあります。
この映画を観た直後、「これはクリント・イーストウッドのヴァイブだ」と思ったのでした。理不尽な境遇に追い込まれた主人公が、怒りに駆られて復讐を果たす。イーストウッドの映画にはそういう主題のものが多いと思うのですが、私は特に「グラン・トリノ」(2008)という作品を思い出しました。
「グラン・トリノ」は私にとっては大傑作で、まだ観ていない方には是非観てほしいのですが(amazonプライム会員なら無料で見られます)、この映画ではクリント・イーストウッド監督がアメリカの保守的で不幸な頑固ジジイ(米国人が”old fart”と呼んでバカにするタイプの保守右翼老人。現在ならトランプ政権の支持者)の役も演じています。なお音楽はご子息でジャズ・ベーシストのカイル・イーストウッド氏が担当。
ポーランド系移民のアメリカ人で、フォードの工場でクルマを作っていた。アジア人は大嫌いで、妻に先立たられたヤモメ。ポーランド系だからかカトリックだけれども信心深くはなく、神父には罰当たりな言語で話す。そんな彼は、あるきっかけで隣家に住むモン族(Wikipedia)の一家をギャング団から守ることになります。
映画「グラン・トリノ」には不幸な人達がたくさん登場します。ただその不幸の起源は、わりと明瞭です。主要なものは朝鮮戦争。主人公ウォルト・コワルスキーはその戦争で多くの民間人の命を奪い、その悪夢に苛まれて生き続けてきた。そして隣家に越してきたモン族の人々も、好き好んでアメリカにやってきたわけではなく、インドシナ戦争でアメリカに加担した結果迫害され、移民とならざるをえなかった。
「グラン・トリノ」の物語は、あるやる方で解決されます。それは、簡単に言ってしまえば「不幸の起源」を断つことによって図られます。本当にいい映画でした。破壊力という意味では「スリー・ビルボード」よりも上です。根本原因を断つ。それは気持ちがいい。
では映画「スリー・ビルボード」がイーストウッド映画の劣化版かというと、そうも言えないだろう、と思ったのでした。というのも、「スリー・ビルボード」に登場する人々は、やはりみんな不幸なのですが、自分が何故不幸なのかわかっていない。わかろうとしても、原因が明らかにならない。そういうタイプの不幸の中に生きているように見えます。
彼等は朝鮮戦争やベトナム戦争のような明瞭なトラウマがあって、それとの関係の中で生きているわけではない。理由はよくわからないけれど、ぱっとしない、景気の悪いアメリカの片田舎で、白人警官がアフリカ系アメリカ人を虐待していたり、1日中ビールとタバコが手放せないような底辺の暮らしをしている。
何故そんなつまらない人生を送っているのか、わかっていない。たぶん、気がついた時からずっと不幸だった。気がついた時から白人警官は黒人をいじめ、ティーンエイジャーの少女はひどい目にあって命を奪われる。そういうのが当たり前の環境で生きてきた。マイノリティがマイノリティを攻撃して憂さ晴らしするという、気分の悪い共同体。
そういう状況は、程度の違いはあっても現代日本についても言える話ではないか。いま20代、30代の人々は、一体何が原因で自分は大学の奨学金を返済できないのか、何故ギブソンのいいレスポールを買えるくらいの給料をもらえないのか、理由がわからない。自分たちが何か悪いことをしたわけではない。ただ、気付いたら世の中は構造的に自分たちにとって不利にできあがっていて、それに立ち向かう術もない。
そういう閉塞感を、映画「スリー・ビルボード」にも現代の日本にも感じます。
「グラン・トリノ」は2008年の映画ですが、たった10年で世の中はだいぶ変わったな、という気がします。世の中は、もっとずっと複雑になった。そして「スリー・ビルボード」はそのあたりの事情も正確に反映した、誠実な映画ではなかろうか、と思ったのでした。
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