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キウイの皮を剥かずに食う

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唐突ですが、現代の日本で普通に暮らしていると街中で「死」を見かけることがほとんどありません。時々、死んだ鳥や、本当に時々、死んだ野良猫を見ることはあっても、稀です。そして死んだ人間がそのへんに転がっているのを見ることは、まずありません。これは大体世界中何処でも一緒でしょう。

政府と呼ばれる組織が、サッと片付けてしまう。

どういうわけか、現代文明というのは必死で「死」を隠そうとします。「死」には恐怖や悲しみが付随するので、行政府がそれを迅速に、あるいはそっと隠すのは当然だとしても、これほどまでに周到に「死」や「異常値」をタブーのように隠そうとする社会は、一体どのようにして成立・発展してきたのだろう、という疑問が湧きます。

ジャズのライブやセッションに行くと、ギターがハウリングを起こして制御不能になりそうな場面に出くわします。弦から手を離した時に出る、ジー…というノイズ。LINE6 DL4のRepeatツマミを上げすぎていて、音量が制御不能なくらいに上がっていく様子。

そういう場面に遭遇すると、不謹慎かもしれないのですが、丸の内や表参道のきれいな歩道で立派なスーツを着ている人の死体が転がっていたらこんな感じでドキッとするんだろうな、と思うことがあります。

最近、ニュージーランドではキウイフルーツを皮がついたまま食べるということを知って衝撃を受けました。皮の部分に栄養があるらしい。皮に栄養がある云々という話以前に、自分が「キウイフルーツの皮は剥くものだ」という固定観念を持っていたことに驚きました。誰に言われたのだろう。いつからだろう。

キウイの皮を剥かずに食う

破綻なく、整っていて、なめらかで、差し障りがないもの。世の中はそういうものから成立している。と、どの国の政府もそのように見せようとする。そんな政府が提唱するような音楽があったとしたら、それは絶対におもしろくない。でも多くの人がやっている音楽はそういうものに近いのではないか。

中世ヨーロッパには、精神病者を隔離するという文化がなかったと聞いたことがあります。「頭のおかしい人」は特に差別されることもなく、共同体の中で多くの人々との関わりの中で普通に生活していたらしい。それがいつ頃からか、精神病院というのができて、隔離されるようになった。

普通にそのへんを散歩していて、誰かが道端で死んでいたり、何を言っているかわからない人に声をかけられるような、そういう世界を想定して音楽をつくったり演奏してみたい、と思うことがあります。いつもいつも同じコード。かたちの整った大根や人参。そういうものに、飽きてきた。

 

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