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音楽とMusic

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楽しくない音楽は音楽じゃない、と、ある知人に言われ、もやもやとした気持ちになったことがあります。

その知人によると、楽器演奏者というものは楽しそうに演奏して、時々観客のほうに視線を投げたり、そういうインタラクションをしなければいけない。エンターテイナーでなければならない。とのことでした。観客のほうを全く見ずに、指板や鍵盤だけ見ていたり、目をつぶりっぱなしだとその人はどうも退屈してしまって、ライブ演奏を心ゆくまで楽しめないらしい。

そういう話を聞いていて、どうもその人と私は音楽に対して求めているものが根本的に違うのではないか、と思ったのでした。

楽しいに越したことはないのですが、例えば”Body and Soul”のようなマイナー基調のバラードを演奏する時、私はニコニコするのは少し難しい。というか、そういう必然性も感じません。楽しい曲を楽しく演奏するのは問題ないのですが、”You Go To My Head”とか”If I Should Lose You”みたいな曲をニコニコ弾くのは、私は無理。

中学生の頃、何の教科だったか忘れましたが、ある先生に「音楽っていうのは『音を楽しむ』って書くんだ。お前らがつまらなさそうな顔でやってる音楽は『音が苦』なんだよ」みたいなことをドヤ顔で黒板に書かれた記憶があります(ただ何故そういう話になったのか、文脈は全く思い出せない…)。

どうもこの「音楽」という日本語が、「音楽は楽しくなければならない」という強迫観念を生んでしまったのではないか、という気がしています。

“Music”という言葉は、元々単に「ムシケー(ギリシャの女神。ミューズ)の技術」から来ているらしい。アウグスティヌスによればそれは「音が良く整えられた科学」であり、ジョン・ケージによれば「我々を取り巻く音たち」。「楽しい」という意味は、そこにはない(さらに言うと「美しい」必要もない)。あってもいいのかもしれないけれど、別になくてもいい。

先日、私が大好きなギタリスト、ジョン・アバークロンビーが亡くなりました。ライブで観られたのは1度だけだったのですが、彼はいつも目を閉じて、多くの場合は苦しげに、その時その時で最も必然性の高い音を探しているかのようにギターを弾く人で、パット・メセニーやジョージ・ベンソンや小沼ようすけさんのように始終ニコニコと楽しそうにギターを弾く人ではなかった。

そういう意味では、ジョン・アバークロンビーは「音楽」はやっていなかったのかもしれない。でもそれは紛れもなく”Music”でした。アバクロ先生が楽しそうにマーク・コップランドと視線を交わしているのも見たけれど、大体いつも辛く、苦しそうだった。でも全く問題ない。私にとってそれは最高のミュージックでした。美しかった。

少し話が逸れるのですが、別の知人によると日本には「写真」という言葉があり、それは「真実を写す」という意味を持ってしまっているため、日本の「写真家」にはこの言葉に迷惑をしている人が少なくないとのこと。”Photography”は「光画」という意味であり、これもギリシャ語の「フォトス(光の)」と「グラフォー(書く)」からの造語。写真は、必ずしも被写体を見たままに撮ることを意味しない。そういう歴史があるせいなのか、アンドレアス・グルスキーは写真家ではない、いや写真家だ、みたいなかなりどうでもいい議論で酒席が荒れることがあるらしい。画像の操作という意味でフォトグラファー以外の何者でもないだろう、と思うのですが、あんな奴は認められぬ!という重鎮がいたりするらしい。怖い。

多くの現代音楽、例えばクセナキスの音楽に「楽しさ」という要素は皆無かもしれませんが、聴いていてこんなに惹き込まれる音楽もそうそうない。私は、音楽は別に「楽しく」なくてもいいな。楽しくなくても楽しめるよ、という言い方は、ちょっと屁理屈に聞こえるのかな。というか私はこういう音楽を聴いていて最高に楽しい。顔は笑ってなくても。


(この動画が末永くインターネットに存在し続けますように…)


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