2000年頃にパット・メセニーがサックス奏者のKenny Gを酷評した有名なエピソードがあります。その発端となったインタビュー動画は本人が意図しない形で部分だけを切り取られてしまっており、パット自身が不快に思っているらしいので紹介はしませんが、このサイトでパットが事の顛末を説明しています。まずは下のKenny Gのステージを見てみます。
パット・メセニーはこの演奏(レコードとライブ)について大体次のように語っています。
最近Kenny Gがレコードを出した。ルイ・アームストロングの30年以上前の「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」に自分の演奏をオーバーダブしたものだ。これをやったがために、Kenny Gはこの地球上で僕が人として認められない数少ない人間の一人になった。こんなことを考える傲慢さは人としてダメだし、ジャズにおける最も重要な人物の一人とステージを共有するふりをするのもミュージシャンとしてはダメだ。
この手の音楽的な死体愛好、つまり亡くなったプレイヤーの既存のトラックにオーバーダブする手法だけれども、ナタリー・コールが何年か前にお父さんと「アンフォゲッタブル」をやった時は奇妙な感じがした。でもそれは彼女のお父さんだったんだ。トニー・ベネットがビリー・ホリデイとそれをやった時もおかしな感じがした。でも彼等は20世紀の最も偉大なシンガーのうちの2人であり、アーティスティックな達成度という意味ではほとんど同じ地平にいた。ラリー・コリエルがウェス・モンゴメリーのトラックに自分の演奏をオーバーダブしようとした時、僕はそれまで彼に持っていたレスペクトの多くを失った。そんな悪趣味な人間、僕の個人的なヒーローにそんな失礼なことをできる人間をレスペクトしていた自分が本当に信じられない。
しかしKenny Gが恐らく最も有名なジャズ・ミュージシャンの音楽を、胸糞が悪い、適当な、インチキブルージーな、調子っぱずれの、その場ででっちあげたような、弱々しいガラクタみたいな演奏で冒涜してもいいのだと考えた時、彼はやってしまったんだ、僕が想像さえしなかったようなことを。彼はその一手で、この最も冷笑的な音楽的方向に、信じられないほど自惚れた鈍感な音楽的決断で身を乗り出すことによって、過去と現在のあらゆるミュージシャン達の墓に糞を撒き散らしたんだ。そのミュージシャン達はルイ・アームストロングがその素晴らしい生涯のあいだ一つ一つの音に注いだ恵みにインスピレーションを受けながら、何年も何年もツアーに出て自分の人生をリスクに晒しつつ自分の音楽を作り上げてきたんだ。ルイ・アームストロングと彼の遺産と基準を、即興音楽を前向きにやろうと試みてきた人達を冒涜することで、Kenny Gはモダン・カルチャーに新たな低次元を生み出した。僕達は皆それについて完全に困惑し、恐れなければならない。僕たちはこれを見なかったことにすることで、自分たちの身を滅ぼそうとしている。
朝鮮中央テレビに勝るとも劣らない激しい口撃です。はじめてこの記事を目にした時、パットが他人をこれほどまでディスれる人間であるとは思っていなかったので、驚きました。もっと余裕のある、大きく構えた、自分の音楽だけに集中している優しい人だと思っていたのです。いつも笑顔だし。しかしこのインタビューへの追記でパットはまさにこうした驚きに対して、そんな風に驚かれるなら10倍厳しく練習したくなる、だって僕の音楽はKenny Gとは全ての面で違っているはずなのに、それが明確には伝わっていないのだから、と語っています。
私はKenny Gの音楽をきちんと聴いたことがなかったので、このインタビューを読んだ後に少し聴いてみました。するとソロがポール・デスモンドのそれと寸分違わない完コピだったりして、確かにこれではスムーズ・ジャズの名の下に過去の遺産を食い物にして金儲けをしていると怒られても仕方ないだろう、と思いました。
一言で言うならパットにとってKenny Gの音楽は、常に現在進行形で現在の中で展開されるはずのジャズという音楽を「ジャズまとめ」のような形で、死んだもの、もう終わったものとしてショーケースし、懐かしむようなものに聴こえるのでしょう。
思想と音楽は切り離せない、とあらためて思います。パットの曲、パットのギター。すべてこの思想の上に成立しているのでしょう。メセニーはやっぱり眩しい。上の出来事から17年も経っているのに、今でも火のように熱い。そしてもうすぐ63歳になる今でも同じ態度で音楽をやっている。
こんなことを書くと本人に怒られそうですが、彼はジャズ・レジェンドと呼ばれる最後の人になるのではないかと思うことがあります。今年は今のところ来日予定はないようですが、これからは毎年1年たりとも欠かさず観に行くつもりです。
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