このブログを書いていて周期的に要求されることがあります。お前は何者か。なぜ匿名で書いているのか。匿名でコソコソそんな文章書いてたって楽しくないだろう。お前のFacebookアカウントはどれだ。友達になってやるから教えるんだ。
最初に書くと、私は匿名で書いているという意識はありません。少なくとも2ちゃんねるにおける「名無し」のように隠れてこそこそ誹謗中傷するようなことはしていないし、匿名のキチガイがやって来るまではこのブログにもコメント欄があり読者の方との交流もありました(今はフォーラムで皆さんと交流できるようになって嬉しいです)。
最近よく思うのは、Facebookにどっぷりハマっている方が多いからか、「Facebook的な価値観」が唯一絶対であるというふうに勘違いしてしまって、それをこちらに押し付けてくる方が本当に多いということです。Facebook的な価値観は、現代で支配的なのは間違いないけれど唯一の正解では決してないし、他よりマシな何かでさえない。私には。
Facebookはコミュニケーションツールとして利便性は高いでしょう。しかし元々それは何だったかというと、マーク・ザッカーバーグという男が「女性を顔で値踏みする」というゲスの極み以外の何物でもないコンセプトで作ったシステムでした。そして、創作物やシステムのこうした初期コンセプトというものは、最後まで払拭できないものとして残ります。
あいつの顔を見てみたい。カワイイのか。イケメンなのか。ブサイクなのか。スリーサイズを知りたい。ブラは何カップなのか。それによって溜飲を下げてやる。Facebookには常にそういう午後のワイドショー的な野次馬根性が通底していて、かなり知的水準が高い人々でも気付かないうちに、特に普遍的ではないはずのFacebook的な価値観で他者に接してしまう。
その様は見ているとほとんど暴力的に思えることさえあります。2ちゃんねるを一言で形容すると「匿名制暴力」ですが、Facebookの一部のユーザーはいわば「実名制暴力」を知らずのうちに行使している、と言っても過言ではないように私には見えます。
なぜ一部の人々はFacebookにこれほどまで依存してしまうのか(※Facebookユーザー全員がそうだとは思いません)。その最大の理由は「自分の言論・思考を、非言語的な文脈で担保できるから・したいから」でしょう。何故そのようにしたいか。それは自分に自信がなく、不安だから(私が自信たっぷりで不安のない人間だという意味ではない)。
平たく説明すると(最高度に乱暴に抽象化します)「俺は◯◯という大企業の部長であって由緒正しいこういう人々が友達に何百人もいてこんなに高価な腕時計を巻いている。だから俺の言うことは正しい」という自己補強に、Facebookは非常に向いている。そうなるともう肩で風切って歩くヤクザと変わらない。
私はそういうものに依拠して文章を書きたいとは思わないし、表現したくもありません。私にとってFacebookのそうした特質はものを考えるにあたって障害であることのほうが大きい。特に、特定のオーソリティーに影響を受けることなく、自分が好きなものは何か、自分の表現は何かを考えるにあたって、Facebookはデメリットのほうが多い。
だからこういう個人ブログで、誰にも「付かず離れず」で文章を書いているわけです。このブログにFacebookページがあるのは、このブログをよく読んで下さっている方にとって便利だから、あと読んで下さる方が増えるだろうから、というだけの理由です。
そういうわけで、一部のFacebookユーザーの方々からの実名要求・アカウント開示ハラスメント、みたいなものは、もういい加減うんざりだ、と申し上げたくこの記事を書いています。
最後に、ある現代の哲学者が著書で紹介していた「権威付け」のパターンをいくつか紹介します。
Facebookはこういう権威付けをするのに最適な場所です。でもこれは結局、その人を着ている洋服で判断することにしか至らない。クリエイティブな発想を生み出すよりも、潰すのにより適している。私にとっては、この意味でTwitterやInstagramのほうがまだ自由度が高いし、ブログはもう少し精密に自分の考えを錬られる場所です。
一部のFacebookの人は、よくTwitterのアニメアイコンの人をバカにしたりしているけれど、親に与えられた名前でなく、自分で面白い名前を考えて、自分が好きなアニメアイコンを描いたり選び取ったりしているという意味で、自律的かつクリエイティブな人間として断然格上ですよ。
何というか、こういう古風な個人ブログはもう世の中に居場所がなくなりつつあるのかもしれません。むかしインターネットがもっとカオスで自由だった頃、「ジャズギ・タブログさんのお気楽ジャズギター日記」みたいなブログがもっとたくさんありました。いわゆる「ハンドルネーム」で発信する、有象無象の”one of them”にすぎないブログ。
そういうブログ文化ってほんと廃れてきましたねー。でも私はそういうのが好きなんです。かといって私は自分の考えを権威を持って誰かに押し付けるつもりはありません。だから私にもそうするのをやめてほしい。そう思うのであります。
墓石は我々に教えた – でっかい空虚の上にはでっかい大理石が乗ることを
(ある詩人の作品より)
空虚を覆う重くて立派な大理石でなく、ただの風になりたい。権威も名誉も名声も欲しくない。自分を立派に見せたいとも思わない。なんとしてもいい音楽をやりたい。自分にとってもっといい音楽に近付きたい。このブログを書いている理由はそれだけであります。
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