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もう新しいギターは買わない

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もう新しいギターは買わない。わたしはそう約束した。妻に。去年だったろうか。あの日、買って帰った新品のギブソン・レスポールの値段が40万円だったことがクレジットカード明細からバレてしまった時、妻は静かに言ったのだった。次はぶん殴る、と。

わかりました、とわたしは答えた。もう新しいギターは買いますん。いや、買いません。絶対に。確かにあの日、そう約束した。でも、いいじゃないか。もう1本くらい。今日の午後、外回りから帰社する途中で立ち寄った楽器屋でそのギターとめぐりあった。ボロボロの姿をしたストラトキャスター。わたしはそれを買った。即断だった。後悔はしていない。それに、これなら妻も怒らないだろうという自信があった。支払いは、足がつかないよう現金で済ませた。

退色したバーガンディーカラーの、濡れ落ち葉のようなボロボロのストラトキャスターを見て妻は言った。どうしたのこのギター。悪い、買ったんだよ。買ったってあなた、これガラクタじゃない。それにもうギターは買わないって約束しましたよねお父さん。新品のギターなんてとんでもないけど、こんなガラクタ買うのも、無駄遣いじゃないの。

悪かった、だが許してほしい。見ての通りこれはボロボロのギター、ガラクタだ。ボロボロでガタガタのお古のギターだ。何の価値もない。捨てられて終わりだ。お役御免だ。だからいいじゃないか。こんなギター、買ったうちに入らない。これくらいいいだろう。ジャンク品として放出されていたんだ。

妻は何も言わなかった。バーガンディーカラーのボロボロのストラトとわたしを交互に眺めてから、お役御免のガラクタ同士、勝手に仲良くやりなさい、と呆れ顔で吐き捨てるように言い、寝室に戻っていった。計画は成功した。わたしは真新しい、最高級クラスのギターを手に入れた。幸せな日々が続いた。わたしは度々会社を早退し、帰宅するとすぐにそのギターで練習するようになった。だがそれも長くは続かなかった。

ある日帰宅すると、玄関で仁王立ちになった妻が言った。「フェンダーカスタムショップ。エムビーエス。1965ストラトキャスターヘビーレリック。バーガンディーミストメタリック。デイル・ウィルソン作」。冷たい汗が額から落ちてくる。妻は続けた。「デジマート価格・新品税込み118万8000円」。母さん、それはいったい何の話だい?

「ジャズギター・フォーラムというサイトで、お父さんのギターの写真を見せて、これ何ですかって聞いたら、皆さん親切に教えてくださいました」

もう逃げ場はなかった。お父さん、これレリックっていうんでしょう。ボロボロだけど新品のギターなんでしょう。もう新しいギター買わないって約束しましたよね。それをこんなボロボロのギターで騙して。しかも118万円ですか。ボロボロでガタガタのわりに、ずいぶん高かったじゃないですか。ジャンク品じゃなかったんですか。説明しなさい、この甲斐性なし。

確かにそれは、ボロボロでガタガタのお古のようなギターだ。わたしは弁解した。でもこのギターは、とても良いものなんだよ。価値がある、素晴らしいギターだ。ボロボロでガタガタでお古で、何十年も前の過去の遺物みたいだが、素晴らしいギターなんだ。そう、君のように。

しまった、と思った。わたしはなんという言葉を口にしてしまったのだろう。しかしもう遅かった。妻の顔から血の気がサッと引いていくのがわかった。妻は悲しそうな顔をして、うつむいた。それほど悲しそうな妻の姿は、かつて見たことがなかった。

そして妻は消えた。その時以降、妻はいなくなった。妻は姿を消してしまった。

わたしはなんて意地悪なことを言ってしまったのだろう。確かに、わたしたち夫婦の間にもう愛情は残っていなかった。喧嘩も絶えなかった。それでも、言っていいことと悪いことが、あるはずだ。妻は消えた。妻のいない世界は、光が差していなかった。暗かった。真っ暗だった。わたしは光と希望を失った。妻が視界から消えてから、わたしはずっと病人のようにベッドに横たわってすごしているかのようだった。もう、ギターもずっと弾いていないような気がする。

「ジャズギ・タブログさん」

誰かがわたしの名を呼ぶ。

「ジャズギさん。聞こえますか。見えますか」

暗闇の中に、うっすらと光が差す。やがて眩しいライトの下に、マスクをした医者の姿が見えた。

「ジャズギさん、ようやく目を覚ましましたね。あなたは何週間ものあいだ、ずっと生と死の境を彷徨っていたのです」

何故わたしは病院にいるのだろう。

「あなたは意識朦朧とした状態で発見されたのです。あなたは何者かにボコボコに殴られたらしく、ボロボロの状態で、ゴミのようにダンボール箱に入れられた状態で路上に放置されていたところを発見されたのです。目の回りもすっかり腫れて、何も見えていない状態でした。数カ所、骨折もしています。よく頑張りましたね。」

お父さん、気がついたのね。医者の隣に、妻がいた。冷たい目で、妻はじっとわたしを見下ろしている。顔は笑っていない。わたしは自分に何が起こったのかを理解した。あの時、妻が何故視界から消えたのかも。私の目は、まだ少し腫れている。


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