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流暢さの彼方へ:外国人としての表現をめぐって

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テレビで、よく「日本在住数十年の外国人実業家や大学教授」がコメンテーターとして登場するのを目にします。彼等の中には、流暢ではないゴツゴツとした日本語で喋りまくる人々がいます。ここで言う「流暢さ」とは、イントネーションが自然で、ネイティブの日本語話者にとって滑らかに聞こえる、訛りが少ないとか、その程度の意味です。

流暢でない外国語表現をめぐって

同じ「日本在住数十年」になる外国出身の人物でも、流暢な日本語を話す人はたくさんいます。たとえばデイブ・スペクター氏が話す日本語は、やや固さがあるとしても私の耳には流暢に聞こえます。パックンの日本語も、恐らく米語の影響なのか、スペクター氏のそれと似たような固さを感じることはあるのですが、私は「流暢」なものとして認識しています。

一方、上述したような「日本在住数十年の外国人実業家や大学教授」は、基本的に「意味が通じれば良い」という発想で日本語を使用しているのだろう、と感じることがあります。コミュニケーションにおいて「意味が通じる」ことは非常に大きい目的の一つだと思うので(しかし「唯一の」目的ではない)、その姿勢自体は間違ったものでも何でもないでしょう。

しかしテレビを見ていて時々思うのです。この人は日本で数十年間暮らしてきて、様々な日本人と関わってきた。それなのに何故この人の日本語はこれほどまでにゴツゴツとしているのだろう、と。考えられる理由は何だろう。本人の資質(たとえば言語習得の得意不得意)や、母国語の影響(大部分の日本人がLとRを区別できないとか、多くの韓国人にとって「ざじずぜぞ」は発音しづらい等)といった、能力やネイティヴ環境の影響はあるでしょう。

それ以外に、もしかしてこの人は流暢な日本語を話すことを心の底で拒絶しているのではないか、と思うことがあります。中国出身の人にそういう人が多いように感じる、などと書くと「差別だ!」と一斉に攻撃されてしまいそうですが、私が中国語を学習していた時、中国人の先生はやはり長年日本に住んでいるけれど、流暢さを「拒否」しているとは言わないまでも「流暢であることに価値を見出していない」喋り方をする人が多かった。

ただそういうタイプの人は何も中国人に限ったことでは勿論なく、むかし在沖縄総領事だった米国人のケヴィン・メアという人物もそうだったし、出身国を問わずいると思います。たまたま私がそのように感じる例が、中国出身者に多いというだけのことかもしれません。

そうした「長年日本に住んでいるけれど、流暢であることに価値を見出していない喋り方」をする外国人による日本語を聞いていると、何とも言葉にしがたい違和感を覚えることがあります。なんだろう。頑張って言葉にしてみます。

彼等は「自分の意図を伝えるため、意味を通じさせるため、主張を理解してもらうため」に日本語を話している。それは記号の交換という、実利的で冷淡、よく言えば効率的な行為なのかもしれません。

しかしコミュニケーションには「交換」以外にも大事な側面があるはず。それは「交感」とも言えるようなもの、「記号の交換」ではない「感情の交わり」のようなものではないか。ゴツゴツとしたアクセントの、時には「わたし訛ってるけどわかるでしょ、ギリギリ通じるでしょ、わかりなさいよ」的な強引さで数十年間日本でやってきた人は、恐らくそういう「交感」的な発想をあまり持っていないのではないか。

そういうタイプの人々は、仕方なく日本にいるのだろうか。何らかの経済的恩恵だけが目的で日本にいるのだろうか。交換活動・経済活動だけが目的であり、日本の異文化に敬意を払うつもりも、私達日本人と仲良くなろうという気持ちも実は持っていないのだろうか、と邪推してしまうことがあります。それとも何か私にはよくわからない事情で、「同じ土俵に乗る」ことを意識的に、または無意識に拒否していたりするのだろうか。

話は少し逸れるのですが、アメリカで会議や商談をするような場合、アメリカ人のように流暢なアクセントで喋ると(そういう能力がある場合の話)、損をすることがあるから気を付けたほうがいい、という話を聞いたことがあります。その理由というのが「もし語彙量や語彙水準、流暢さもアメリカ人と同じだったら、相手はこっちを『アジア人のくせに』と一段下に見ようとする。だからちょっとぎこちないくらいの英語で喋ったほうが、相手はこちらを『異文化の人間』と認識して、よく話を聞いてくれて、最終的にいろいろうまく行く」というもの。

まぁ人間社会、特に哺乳類のオスにはどうしても相手より優位に立とうとするマウンティング気質があるかもしれないので、悲しいけれどそういう現実があるのかもしれません。すると「日本在住数十年だけど、流暢ではない日本語で饒舌に喋りまくる」人々は、自分を下に見られないようにするために同じ土俵に立たない、ということをやっているのかな。そういう人もいるのかもしれない。ひとりひとり事情が違うかもしれない。

でもデイブ・スペクターやパックン、ウォール・ストリート・ジャーナル東京支局長のピーター・ランダースといった人々が、米国語の訛をかすかに残しながらも流暢な日本語を喋っている、あるいは「郷に入って」喋っている姿を見ると、私は好感を持ちます。ああ、この人達は自分の意見や主張を届けることだけが大事ではないんだ、私達と仲良くなりたいんだ、共同体に敬意を払っているんだ、と思います。好感度はやはりこういう人達のほうが高い。

「意味を通じさせる」ことが至上命題だったとしても、人は好感が持てない人物の言葉に積極的に耳を傾けたり、頑張って理解しようとすることはない(声がやたらでかかったら聞かざるをえないかもしれないけど)。「この人は私達の言語に対して敬意を持っている。この人達は私達の仲間になろうとしている」と思うと、やはり相手の話はよく聞こえてきます。平たく言うと、言い方はとても大事、っていうごく当たり前のことです。

じゃあ「何らかの理由で流暢さを拒否している、または距離を置いているような外国人」は、基本的にダメなのか。決定的におかしいのか。仲間外れにすべきなのか。排除されるべきなのか。これはまったくそんなことはないでしょう。居心地の悪さを感じることはあっても、むしろ彼等は「この共同体の外部にも世界がある」ことを知らしめてくれる貴重な「他者」です。

外国に行って異質な共同体の中で暮らす場合、その共同体の文化や慣習を理解して基本的な敬意を払う必要は当然あるにせよ、もともとの自分のアイデンティティを放棄する必要もまったくない。また、共同体が完全に均質になってしまって、みんながみんな同じような喋り方になってしまったらそれはそれで気持ちが悪く、息苦しくもなってしまう。これが音楽ジャンルだったら、新しい表現や才能はで出てこなくなるし、そのジャンルはゆっくりと終わる。

私がいちばん怖い、というか尊敬しているのは、過剰な均質さを求める「日本の村社会的側面」をよく理解していて、この国には本当に異常なところがある、と感じていながらも、日本で生まれた日本語ネイティブではないかと思えるような流暢さ・自然さで日本語を話して暮らしている外国人。私が学生時代にお世話になった西欧出身の先生がそういう方で、その方は私よりも上手に漢字を書く人でした。時々そういうすごい人にお目にかかることもあります。

セロニアス・モンクのピアノ、ビル・フリゼルのギターは、流暢さや流麗さからは距離が置かれていて、なんとなく「流暢ではない日本語で話す日本在住数十年の外国人実業家や大学教授」に似ている印象も受けます。でも、本質的なところで決定的に違っている。後者が楽譜をMIDIに発音させたような音楽だとしても、前者は全然そういう感じの音楽ではない。

大きい違いは、そこに「愛」や「交感」の意志があるかないか。それに尽きるのでしょう。外国語だからとか、共同体の外側からやってきたからとか、きっと関係ない。自分の行為が「愛と交感」に基づいているか。それだけが肝要なのでしょう。

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