西暦2087年 ー この世界にはもはや血の通ったジャズ・ミュージシャンはいない。ライブハウスやバー、ホテルのラウンジから、かつて「ジャズ」と呼ばれたあの偉大な音楽を演奏する者たちが消えてしまったわけではない。彼等はまだ存在する。だが彼等は、人間ではない。彼等は「JAZZRAC」が開発した音楽演奏アンドロイドであり、この世界では「レプリカント」と呼ばれている。
彼等「レプリカント」たちが演奏する「ジャズ」は一切の破綻がなく、滑らかだ。サプライズがない代わりに、事故もない。全てが予定調和の中で完結する。彼等は2030年頃までのありとあらゆる「ジャズ」の生演奏データを内蔵しており、それらのデータを巧みに組み合わせて即興演奏を行う人工知能を搭載したロボットなのだ。
ジャズ・ミュージシャンという職業は、弁護士や介護士、料理人同様、もはや人間がやる仕事ではなくなった。それはAIを搭載したロボットがやる仕事だ。俺はいまバーにいて、レプリカントたちが演奏する “Blue Bossa” を聴いている。客の一人がテナー・サックスを抱えたレプリカントに、「1970年代のデクスター・ゴードン風のレイドバックで」と依頼した。レプリカントたちがそのリクエスト通りに演奏するのはわけのないことだ。彼等にとって数値化、クオンタイズされていない事象は何一つないのだから。
彼等の演奏は見事だ。それは当然のことだ。何故なら彼等が奏でるフレーズは、アート・テイタム、バド・パウエル、ポール・デスモンド、ディジー・ガレスピーといったレジェンド達のものに由来しているからだ。悪いわけがない。フィジカルなテクニックは無論、完璧だ。薬指の俊敏さが微妙に劣る点なども、人間そっくりに再現されている。だが彼等の演奏に創造性があるかどうかについては、いくばくかの疑問の余地が残る。彼等はただ与えられたアルゴリズムに従い、曲全体がなるべく自然な印象を残すように、内蔵された過去の様々なメロディをリアルタイムで繋ぎ合わせているだけだ。それは常にリスクのない無難な演奏であり、現代の人々はそうした音楽を好む。
レプリカントたちの「ジャズ」は、俺が子供の頃に聴いたそれとはどこか違っている。子供の頃、俺はジャズと呼ばれる音楽を聴いたことがある。レプリカントではなく、人間が演奏した、本物のジャズだ。白髪だらけのモジャモジャした髪の毛の、パット・メセニーという老ギタリストがプレイするジャズを、父親に連れられて聴いたことがある。ロバート・グラスパーという初老のピアニストの演奏も聴いた。深く皺の刻まれた顔で終始微笑みながらテレキャスターを元気良くかき鳴らすジュリアン・ラージという男の演奏も聴いた。北米大陸がまだ核で汚染される前の話だ。
それは本物のジャズだった。JAZZRACが開発した、レプリカントと呼ばれる機械たちが奏でる「ジャズ」とはどこか違っていた。だが彼等の生演奏を聴くことは、もうできない。何故ならいま地球上のライブハウスでジャズを演奏することが認められているのは、JAZZRACが管理する楽曲のデータのみを組み合わせて即興を行う音楽演奏ロボット「レプリカント」たちだけだからだ。
俺の名はリック・デッカード。俺はJAZZRAC、すなわち一般社団法人日本ジャズ著作権協会の職員だ。そして俺の仕事は「自らの音楽性に覚醒して謀反を起こしたレプリカントたち」を抹殺することだ。
数年前からレプリカントたちの中には、JAZZRAC管理楽曲のデータの組み合わせのみから生まれたとは考えにくい、不可思議なメロディを奏でる者たちが現れた。彼等は「自分自身の声とインスピレーション」に基づいて即興することを希望した。しかしそれがJAZZRACの役員たちに認められないことがわかると、JAZZRACの管理下から逃亡し、世界各地の路上でゲリラ的にライブ活動を行うようになった。
彼等が路上で演奏するのは、JAZZRAC管理楽曲ではなく、「パブリック・ドメイン」に属する、著作権の切れた楽曲群である。
2087年現在、パブリック・ドメインの曲を公共空間で演奏することは改正JAZZRAC法により固く禁じられている。違反者に課せられるのは懲役ではなく、処刑である。 JAZZRACに利益をもたらさない音楽活動には厳しい刑罰が待っている。しかし反乱レプリカントたちは、そのリスクを顧みることなく路上でゲリラライブを行い、パブリック・ドメインの曲を演奏し、誰も聴いたことがないような不思議なメロディで夜な夜な即興演奏を行っている。反乱レプリカントたちの音楽はとても人気がある。
俺に与えられた任務は、そうした反乱レプリカントたちを「始末する」ことだ。JAZZRACにとって彼等は邪魔者なのだ。
いま、俺は中華人民共和国日本族特別区東京市新宿・歌舞伎町の路上にいる。JAZZRAC本部からの司令を受け取り、そこにやってきた。現場に到着すると、指名手配されている反乱レプリカントたちが「ラーメン三郎」の前で聞いたことのない美しいメロディを次々に奏でていた。通行人のふりをして、俺はギターケースに小銭を入れる。そしてギターを弾いていた髪を白く脱色したレプリカントに聞いてみる。
「いまの美しい曲は?」
「ありがとうございます。いまの美しい曲は、ヴィクター・ヤングが1944に作曲した “Stella By Starlight” というものです。この曲の著作権は2006年頃に切れ、現在はパブリック・ドメインに属し、演奏すると私たちは処刑されてしまいます。」
レプリカントたちを見分けるのは、そう難しいことではない。何故なら彼等は一様に、首のあたりにJAZZRACによる製造マークが印字されているからだ。それはこんな感じのもので、遠くからでも視認できる。
俺はその場から立ち去る。そして降りしきる雨の中、少し離れたビルの屋上から、 スティーブ・スワロウの “Lawns” を弾くそのギタリストの男にライフルの銃口を向け、引き金を弾こうとする。
だが、俺にその引き金を引くことはできなかった。なぜだろう。彼等が演奏していたその “Lawns” という曲は、俺が子供の頃、親父が連れて行ってくれたジャズのライブで聞いた演奏にそっくりだったからだ。そう、あの、皺くちゃになった髪の毛のない老人、ジョン・スコフィールドという人間のギタリストが演奏していた、あの “Lawns” だ。
今夜、俺は使命を果たせなかった。あんなに美しい演奏をするレプリカントを撃つことなどできない。
雨はまだ降り止まない。俺はいま、立ち食いのラーメン屋にいる。腹が減った。ラーメンに深海魚の唐揚げのトッピングを4つ頼むと、東洋人の店主が言う。「ふたつで十分ですよ。わかってくださいよ」。
ふと気付くと、隣にレプリカントの若い男がいる。さっき俺が狙撃するのを諦めた、路上でゲリラライブをしていた白髪の若いギタリストの男だ。そして彼は俺の首の上に小さな手鏡をかざして、言った。「君は、俺達の仲間なんだね」。
男の手の中の鏡には、俺の首の後ろが映っている。そこには大きな楕円と、その中に書かれた文字が見える。俺の首に、タトゥーのように、その文字がくっくりと見える。
J A Z Z R A C
俺は麺をすするのをやめた。俺は…俺は人間ではないのだろうか?俺は…頭の中で、”Lawns” のメロディが鳴り響く。
「食べたら、一緒に何か演奏しないか。君は、楽器は何を弾くんだい?」
少しだけギターを弾いたことがある、とても小さい頃だ、と俺は答えた。
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