常にニコニコ笑っている、微笑みを絶やさない、という状態は人間にとって自然なことなのか。それとも不自然なことなのか。
幼稚園児や小学生のような子供は、結構ニコニコしている時間が多いんじゃないのかな。そんな気がします。いや、満員電車に詰め込まれて通勤する中年男性よりも確実に多くの時間、一日を笑って過ごしているはず。いじめられたりしていなければ。
人間は歳を取るにつれて、一日の中でニコニコと笑っている時間がだんだん減っていくのではないか。そして、それは白髪が生えてきたり、腹が出たり、顔に皺ができるのと同じくらい自然なことではないか。残念ながら。人間とはそういう生き物ではないか。
そう考えると、パット・メセニーや小沼ようすけさんのように、いつも(少なくともステージ上では)ニコニコ楽しそうに笑っているというのは、本当に楽しい時間を過ごしているせいもあるだろうけれど、彼等の年齢を考えると、ある意味、不自然なことであるような気がしないでもない。
つまり、彼等は笑顔をキープするために何らかの努力しているのではないか、と思ったのでした。もともと性格が明るくて笑っているのが好き、ということもあるのかもしれない。でも、それだけで単純に説明がつくものだろうか、と疑問に思います。何故なら、誰しも子供の頃は一日の多くを笑顔で過ごしていたのだから。
いまは自然にいつもニコニコ笑っている彼等だけれども、人生の何処かのタイミングで、笑顔をキープする努力をしたのではないか。自分のプレイのために、音楽のために、笑顔でいることが重要なのだ、と悟ったことがあるのではないか。その結果、彼等はあの笑顔を獲得したのではないか。ご本人達に聞いてみないとわからないけれども。
では演奏中に笑顔を全く見せないギタリストが好きでないかというとそんなこともなく、どちらかというと苦しげに音を探して、必死でその場を生き残ろうとしている感じのジョン・アバークロンビーやジョン・スコフィールドの演奏も大好き。時々笑うこともあるけど、基本的にはしかめっ面系のふたり。彼等は彼等で最高。
どっちが正解ということはないんだろうけど、ニコニコと笑っている人がつまらない演奏をしているところはどうもイメージしづらい。反対に、いつも眉間に皺を寄せて悩んでいそうな人が、行き詰まってしまう様子はイメージしやすい。
小沼ようすけさんのライブを観ていつも思うのは、何て楽しそうな表情なんだろう、ということ。そんな小沼さんも、20代の頃にはアドリブがうまく行かなくて暗い気分の日々があったと本で語っていました。現在の自由すぎる小沼氏からは想像つきません。
きっと努力されたのでしょう。人間なのだから嫌なことだってたまにはあるでしょう。でも小沼さんはものすごくポジティブな人で、タブラ奏者のU-zhaanさんがインドで扁桃炎にかかった時「毒素が出て良かったね!」と応じたらしい。そして自分がスリランカでサーフィン中に骨折して入院した時、「ここの病院食、おいしいよ!」というメールを送ったという。
なんというか、もう全部楽しむという気持ちなのかな、と思います。何かが弾けなかったら暗く哀しい苛々した気持ちで「ちくしょー弾けねー!人々の不幸を呪ってやる」ではなく、ニコニコしながら「ワハハハ、これ難しすぎワロタwどうやったら攻略できっかなーフヘヘヘ…」くらいのハイパーポジティブ精神で楽しむ。
笑いって悪いものなわけがないんですよね。笑いが属する世界は楽しさであり、幸福であり、喜びであり、軽さであり、自由であり、寛容であり、愛であり、優しさであり、脱力であり、水であり、共感であり、平和であり、柔らかさであるはず。
眉間に皺を寄せて苛々しながらサンバを踊ったり、悲しみの涙を流しながらおいしい御飯を食べる人はいない。怒りとともに頬にキスして挨拶するとか、憤りつつ抱擁するとか、そういうのはなかなか想像できない。
“Be water, my friend.”(友よ、水であれ)と言っていたブルース・リーもそういえば良い笑顔を見せる人だった。ブルース・リーは悩みも多かった人らしい。きっと彼も笑顔をキープすることの大切さを理解していたのではないか。陰陽思想の核心は、陰「と」陽、という二元論ではなく、「陰陽」という分かち難い一つのものだという。
笑顔はきっと当たり前のように与えられるものではないのでしょう。一日中笑顔をキープする練習、してみようかな(歩いている時に職務質問されそう)。笑顔については以前も似たような記事を書いたことがあると思うのですが、十分に理解していないものについては何度でも戻ってきて何度でも書こうと思っています。身体によく入っていない音列を何度でも弾くように。価値のあるものほど安易な理解を拒むような気がしています。
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