ホタテを網に乗せようとしたその時、素朴な疑問がふと脳裏を過ぎったのだった。ホタテには裏と表があるのだろうか? どちらから先に焼くべきなのだろうか?
そんなことはどうでもいい。世の中の全てについて些末な疑問を持ってしまうと疲れ切ってしまう。ホタテなどただ黙って焼けばいい。裏から焼いても表から焼いても誰も困りはしない。と思ったその瞬間、後頭部をバットで殴られたような衝撃を感じ、僕は口から泡を吹いて白目を剥いた。リバーブのかかったマイルスの声が脳内で反響する。
You lazy idiot… 怠惰な馬鹿者め…ホタテにも裏と表があるのを知らないのか…ホタテはまず面が平らな表から網に置き、放置する…十分に焼けたら、そう、機が熟したら…貝は勝手に開く、こんなふうに…ホタテ本体が上にくっついているのを、見逃すな…下が表で、上が裏だ、ホタテのこの不安定な感じ、浮遊感… これは IIb、つまり裏コード なのだ…
大切な汁が滴り落ちてしまわないようにトングで貝を閉じ、上下をひっくり返す…すると今度はホタテが安定する… 増4度でひっくり返されたIIbが、Vになった、ということだ…グツグツとしたドミナント状態であることに変わりはないが、妙な安定感がある…ここにIIbの心躍る浮遊感は、もはやない…not very interesting to me…俺には少し退屈なサウンドだ…
だが、どんどん流れ出してくるホタテのうまみが凝縮された汁をたっぷり受け止められるのは、この形態以外にない…上下が逆なら、汁はあっという間に流れ出してしまう…それはグルーヴのない音楽のようなものだ…だからホタテに関しては…あくまでホタテに関してだが…IIbは極力使わないほうがいい…
はっと我に返る。周囲を見渡したが、マイルスの姿はない。普段マイルスの姿が見えなくとも、僕たちは安心してはならないのだ。何事にも正解はある。しかしその正解がいつでもどこでも通用するとは限らない。その時々で、何が正しいかを観察に基いて判断しなくてはならない。即興、そして人生は、間断なきデシジョンの連続なのだ。
売り上げランキング: 11,443