私達が音楽表現の際に使用する楽器がギターであるとして、そのギターという楽器の制限・制約にどのように向き合えば良いのか。これまで様々なギタリストの言葉を見聞きしてきたのですが、大きく分けて2つの異なる意見があるように感じています。
意見A:ギターという楽器の制限に縛られるべきではない。楽器の構造がメロディの発生や展開を妨げるようなものであってはならない。「弾きやすいから」という理由でそのメロディ、そのフレーズを弾くのは、どうなのか。また、どんなメロディもあらゆるポジションで同じニュアンスで弾けるよう、訓練を重ねるべきである。私達はサキソフォンのようなホーン・プレイヤーたちに学ぶべきだ。何故ならジャズという音楽、とりわけビバップはサックス奏者が進化させてきたのだから。またホーン奏者において、メロディは呼吸と深い関係を持っている。それは「歌」にとても近い。ギターは息を止めていても延々と弾き続けることができる。しかし、それでいいのか。
意見B:私達が表現のために使っている楽器は、ギターである。サックスでもない。ピアノでもない。ギターである。その現実を受け入れるべきだ。ギターで弾きやすい音型と、弾きにくい音型がある。サックス奏者やピアニストに学ぼうとしても、ギターでは同じ流暢さで弾くのが難しいフレーズも少なくない。ギターで弾きやすいメロディを弾いても良いのだ。そしてチョーキングやダブル・ストップやスライドや異弦同音やカウボーイ・コードのような「ギター的な表現」をもっと積極的に使ってもいいのだ。ロックギタリストが使うようなマイナー・ペンタニックのフレーズを使ったっていいのだ。何故ならそれはギターなのだから。
上の各意見は、誰か特定のギタリスト1人の言葉ではなく、様々なギタリストの意見を総合したものです。どちらの意見にもそれぞれの正しさ、説得力があるように感じます。意見Aに傾いているギタリスト、意見Bに傾いているギタリスト、どちらも好きです(ただ自分自身はかなり長いあいだ意見Aの中で生きてきたような気がします)。
意見Bのほうが、どちらかというと少数派のような気もします。ジュリアン・ラージは明らかにこのタイプ。ティム・ミラーやオズ・ノイは、そういう発言はしていないけどテクニック的なアプローチを考えると多分こちら。少し上の世代だとジョン・マクラフリンやマイク・スターンもこのタイプじゃないかな。ヴィック・ジュリスとバーンスタインもかな。ビル・フリゼルも絶対こっち。なんだ、わりと多い(笑)。
意見Aは、これを全てバシッとこの通りに主張しているわけではないのですが、ジョン・アバークロンビー、パット・メセニーが代表的かもしれません。アバークロンビーは教則動画の中でギターの制限に縛られないことについて語っている時、”I have nothing against guitar…(ギターという楽器に不満があるわけじゃないんだけど)”と付け足したことがあって、その時「これは結構奥深いテーマだな」と思ったのでした。
先日ジュリアン・ラージのクリニック動画を見たのですが、子供の頃にパット・メセニーのレッスンを受けたのだそうです。その時、マイナー・ペンタトニック(6弦ルートを人差し指ではじめるアレ)で適当に弾いたら そんなの弾いちゃダメだっ! と怒られたのだそうです(容易に想像できて可笑しい)。でもジュリアンは、僕はそうは思わないんだよ、これは弾いたっていいんだ…と語っていたのがとても印象的でした。
隣の芝生は青く見える、というか、誰でも自分以外の存在に、外の世界に憧れを持ちますよね。自分にないものに憧れる。音が早く減衰する宿命のギターを弾いていると、ホーン奏者の力強いロングトーンやオルガンに憧れる。10本の指で音を叩くピアノに憧れる。ドラムに憧れる。ギターを使って、ギターでは難しい表現を試したくなる。
ではギターはダメなのか。ギターだからこそ可能な、ギターならではの表現を追求してはいけないのか。というとそんなことは決してないだろう、ということですよね。
ギターという楽器の恩恵を受けること。ギターという楽器の魅力を最大限に弾きだすこと。ギターに助けられること。それはきっと、悪いことではまったくない。多分、ギターという楽器の性質に惰性で頼ってしまうと、いい表現にはならない。それだけのことなのかな、と思います。ギターに依存するのではなく、信頼すること。共に歩むこと。
即ち、愛。愛があれば、それでいい(き、決まったぜ…)。
これは「自分自身であることに抵抗し、自分自身であることを受け入れる」という話にも繋がって行くのでしょう。自分自身を越えたい。自分にはまだない、より豊かな表現を目指したい。誰でもそう思うはず。だからといって自分を否定する必要もない。自分を理解し、自分の魅力を引き出す努力をする。自分に愛を持って接する。それが大事。
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