その夜、ぼくはとても疲れていた。朝から晩まで働いて、家に帰るとご飯も食べずにギターの練習。睡眠時間も少ない。今日は元気を付けるために、何かおいしいものを食べて帰ろうと思ったのだった。
「磯丸水産」の前を通りがかった、ちょうどその時だった。ぼくの隣に、顔が半分隠れるくらいの大きいサングラスをかけた、長髪パーマの痩せた男が現れた。ぼくが悩んでいる時や疲れている時にフッと現れる、心のマイルスだ。
これは… ファクトリー、つまり工場の一種… なのか… ?
いや、これは居酒屋だよマイルス。最近あちこちで見かけるんだ。流行っているみたいだけど、入ったことないよ。
居酒屋… ? 「さかな貝加工センター」じゃないのか… ?
それに… 流行っているのに、入ったことがないだと… ?
マイルスは立ち止まり、ガムの入った口を大きく横に動かした。表情はサングラスのせいで読めなかったが、怒っている、とぼくは思った。
あの灯りは… 何だ…? エレクトリックな… 明るい、でかい電球が… たくさんある…
あれは漁船の灯りを真似しているんじゃないかな。イカ釣り漁船とかさ、ああいう灯りでイカをおびき寄せるんじゃないのかな、知らないけど。お店を海っぽく見せるための演出だね。海とか浜焼きとか、そういうのがコンセプトなんだよ。
コンセプト…?
マイルスは怒っていた。口調にふつふつとした怒りが感じられた。確実に何かに腹を立てている。思えばこのあいだ、いきなりステーキの看板を見てマイルスは不機嫌になった。「磯丸水産」のこの外観も、気に入らないに違いない。
行こう、マイルス、何処かに何か食べに行こう。ぼくは急いで「磯丸水産」を通り過ぎようとした。だがマイルスは、意外な反応を示した。
入らないのか…? 俺は… 入ってやってもいい… 積極的に入ってみたいとは言わないが… お前がどうしてもと言うのなら、入ってみてもいい…
どうやら磯丸水産にはマイルスの気を惹く何かがあるようだった。ぼくたちは店に入り、ホッピーを頼んだ。すると女の店員さんがお通しのシシャモと薩摩揚げを焼いてくれた。
マイルスはシシャモを眺めながら、何か納得が行かないといった感じで、ガムをクチャクチャ噛んだ。
俺たちは… こんなものを頼んでいない…
それは「お通し」って言うんだよ、マイルス。この国の居酒屋では、店に入ったら頼まなくてもこういう何かが出てくるんだ。
そうか… 良いサービスだ… 親切な国だ…
いや、サービスじゃなくて、有料なんだけどね。
… ワッ? (What?)
… ぼくは言葉を失った。とりあえずマイルスが怒りださないよう、「お通し」については詳しく触れないことにして、マイルスのために貝やエビを焼き始めた。マイルスは貝を焼いたことがないらしく、珍しそうに卓上コンロを眺めていた。
そのデカイ貝、それは何だ? What’s that awesome sxxt….?
これはね、ホタテだよマイルス。スカラップ(Scallop)さ。食べてみてくれよ。
うまい… なんだこれは… こんなものは… 食ったことがない…
マイルスは無言でホタテやハマグリを食べた。ホッピー(白)もよく飲み、何か非常に満足している様子だ。これはどんな飲み物だと聞かれたので、昔の日本の豊かでない工場労働者が当時高価だったビールの代わりに飲んでいたものだと説明すると、マイルスは目を輝かせた。そんなマイルスを見るのは珍しい。マイルスは店内の様子を見回している。
ところで、あの看板は何だ… 魚市場から持ってきたのか… この店は… 魚市場から出発した店なのか… 歴史と伝統がある、由緒正しい居酒屋というわけか…
いや、あれはそれっぽく作っただけだと思うよ。磯丸水産という名前も、魚屋さんみたいだけど、たぶん魚屋さんではないんじゃないかな。あれも演出だよ。フィクションなんだ。
… どういうことだ… 説明しろ… (I don’t quite get it… you explain it to me…)
いや、たとえば築地魚市場とかさ、そういうところが発祥に見せかけているんだよ、説得力を持たせるためにね、でも本当じゃないと思う、虚構だよ。全部、それっぽいムードを出すために演出されているんだよ。テーマパークみたいなものさ。エンターテイメントなんだよ、きっと。
… あのラムネ温泉とかいうのは… お前はラムネ温泉というものに、入ったことがあるか… ? この店とラムネ温泉の関係は、何だ… そもそもラムネ温泉とは、何だ… ラムネが… 何故… 温泉だ…
ごめんマイルス、ぼくにもよくわからない。でもあの「ラムネ温泉・ばんやの湯」っていうのは何となく実在しそうな気がする。本当にあるかどうかは知らないけど、あの看板はそれっぽいね。
俺は、この店を、認める…
え?
俺はこの店を認める… この店には、確かなコンセプトが、ある… あるのかないのかわからない、ぼんやりとしたイメージでしかなかった何かを… それっぽい、この高みにまで、引き上げた… 細部まで徹底的に… 妥協することなく… 具現化した… 日本語で言う「世界観」というやつだ…
いいか… お前もこんなふうに自分の音楽を作り上げなくてはならない…
疲れた時は、いつでもこの店に来るがいい… ところでその薩摩揚げ、食わないのか… 食わないのなら… 俺が食ってやってもいい… 気に入ったわけじゃないが… どうしてもというのなら…
お客さ〜ん、大丈夫ですか、と店員さんがぼくの身体を揺すりながら言う。どうやら、ぼくは酔いつぶれていたようだ。マイルスは、いつのまにか姿を消していた。
幻覚でなく、本当にマイルスが存在していたら、毎日がどんなに素晴らしいだろう。マイルスはいつもぼくにヒントをくれるのだ。
その時、ぼくはあることに気付いた。ぼくは薩摩揚げが好きではない。だから、大体いつも食べない。しかしお通しの皿からは、薩摩揚げが消えていた。マイルスは… あのマイルスはぼくの妄想の中の存在ではなく、実在しているのかもしれない。そう思った。