イタリアの作曲家ルチアーノ・ベリオは武満徹との対談の中で、「音楽のつくりかた」について面白いことを言っています。
西洋音楽には二種類のアプローチがあります。ひとつは足し算的なアプローチです。これは例えばひとつの細胞が分裂を繰り返し、どんどん増殖して人間になったり象になったりライオンになったりするようなもので、ベートーヴェンの作品等に典型的に見られる方法論です。もっと最近のものでは、ウェーベルンが、三つの音の細胞から、大変美しく透明な、実に表現力豊かな有機体を構築しています。
そして二番目のアプローチが引き算的な方法で、これは広大なヴィジョン、見渡すかぎりの風景といった膨大なものの中から、何かを抽出していく。これは、もしかしたら彫刻の作業に似ているかもしれません。ミケランジェロは、大理石を見ると、常にその中に自分のつくりたい彫刻の姿が見えるのだと言っています。つまり、彼は石の中から彫刻を『発掘』したわけです(笑)。
武満徹・音楽創造への旅
「日本的引き算のアプローチ」 (p.739)より
レンガを1個1個積み上げるようなものが「足し算的なアプローチ」。これはモチーフを発展させて音楽をつくる方法として、バッハからベン・モンダーまで西洋音楽全域で見られる発想であることを私達は知っています。これは、別に悪いわけではないとして、ベリオが言う「二番目のアプローチ」が興味深いです。
一言で言うと「ヴィジョンを持つ」ということだと思います。全体についての直観、ヴィジョンがなければ、どんなに巧みにレンガを積み上げていっても、いい音楽にはならない。
上の対談でベリオは、「足し算的なアプローチ」と「引き算的なアプローチ」は矛盾しないものだとも語り、モーツァルトを例に挙げています。モーツァルトはよく、最初の音符を書く時すでに曲全体がその細部まで頭の中にあったと言われています(本人がそういうことを言っていて、曲も確かに全てが必然的な展開という気がします)。
モーツァルトは書こうとしている曲の全体、その広大な光景をイメージできていた。それを譜面に落としていくのはレンガを積むような作業だったとしても、それはあくまで広大なヴィジョンの中で行われた。
日々の音楽生活の中で、私達の大部分は「巧みな足し算」をすることに、ヴィジョンなく構築することにウェイトを置きすぎている傾向があるような気がします。「引き算的なアプローチ」、「構築」とはまた違う「観察と発見」のようなアプローチを忘れないようにしなければ、と思いました。即興演奏で言うなら、音楽全体がどんなシェイプを描きそうかを観察しつつ、それに向かって音を積み上げていく、というような。
バックミンスター・フラーのこういう言葉も思い出しました。
全体的に思考して、局所的に行動せよ。
最小限を行使しつつ、最大限を達成せよ。