パット・メセニーが20年近く前にKenny Gといういわゆる「スムーズジャズ」の人を猛烈に批判したインタビュー動画がネットに浮上したことがあり、このブログでも取り上げたことがあります。その詳細は下の2つの記事をお読みいただくとして…
先日このブログのコメント欄を拡張してより多くの方々に自由に発言してほしいとの思いから発足されたJazz Guitar Forumにて、「メセニーがKenny Gをディスれたのはメセニーが音楽的に一流の人間だからである、我々一般人にとってそれは許されたことではない」という主旨のご意見が寄せられました。
それに対して「いや誰が言ったからとか、発言者の人格や社会的地位や品格や実績は別にして考えるべきだ」というご意見もあり、私は考えさせられたのでした。
私個人としては、どちらの意見にも賛同できるところがある、と感じました。それは何故かというと…
パット・メセニーがKenny Gの音楽を否定しているのは、これは私の考えなのですが、彼は「自分の人生そのもの、自分が人生でやってきたことをKenny Gによって否定された」ように感じたからではないか、と思うのです。下の記事では、彼は「自分は未だ存在しない未知のオーディエンス」に向かっても演奏しているのだ、と語っています。つまり彼は未来に向かってもプレイしている。
思うにパット・メセニーからすると、Kenny Gは何ら新しい価値を生むことなく、過去の懐かしい物語の再現を求める人々に対して、彼らが求める「古き良き同じもの」を提供している人間である。過去に向かってのみプレイしている人間である。
対してメセニーは「いまここで新しい音楽を体験しようとしている人々、そして未来のオーディエンス」に向けて演奏している人間である。メセニーは現在進行型の人間。それは彼のどの音源を聴いても明白です。そこに「退行」の文字は微塵もありません。
ここで大きい違いが生まれるのだと思います。そしてメセニーにとってKenny Gのような人がやっている音楽は、自分の人生の価値、そして自分が伝えようとしているジャズの歴史を毀損する恐れがある、憎むべきものなのかもしれません(※ただの推測です)。
それは、彼の言葉からもわかるし、そしてここがより重要なことなのですが、彼の音楽からもすぐわかるのです。1曲を演奏する労力だけ考えても、メセニーのそれはKenny Gの数千〜数万倍の労力を必要とするものでしょう。いや、もっとかもしれない。
そういう意味でメセニーが「Kenny Gの音楽が嫌いだ」と言っているのなら、私はその意味がすぐ納得できるし、賛同できます。ただそれは彼の「生き方」についての根拠をベースにしてそう言えるのであって、メセニーが「音楽界で偉いから、すごいプレイヤーだから」というのとは、少し違うんですね。つまり何らかの「権威」とは全く関係がない。あくまでメセニーの音楽を根拠に、彼の発言の重みがわかるのです。
私個人は、そこまでKenny Gのことをディスれない。私自身がメセニーと同じほどジャズの歴史に責任を負っていないこともあるし、そこまで嫌う理由もありません(積極的に聴こうと思うこともないけれど)。
自分の人生の根本を傷付けられた、存在意義を否定されたということなら、それは誰でも怒ると思うし、そういう怒りを持つのは正当なことだと思います。それは誰にも止められない。私個人としては、メセニーがそういう発言をするのは、別に見なくてもいいのですが、本人がそう言いたければ仕方がないし、彼がこれまでやってきた音楽の性質を考えるなら彼がKenny Gをあれだけディスったことも認めざるをえない。
もう本人にとっては親の仇みたいなものでしょう。それは止められない。止める権利もない。これは他人がとやかく言うことではないだろう、と思います。