1996年に65歳の若さで亡くなった日本を代表する現代音楽作曲家・武満徹。その武満氏への800ページ弱にも及ぶロングインタビュー本が昨年出版されていたのを知り、最近少しづつ読み進めています。読んでいてあらためて思うのが、武満徹という作曲家を理解するにあたって重要な概念が「ジャズ的な何か」と切っても切れないものであるということです。
身体性・エモーション・洗練前のエネルギー
武満徹が熱心なジャズファンであったのは有名ですが、武満徹・音楽創造への旅(立花隆著)を読むと氏のジャズ愛の根底には「音を構築する」という西洋的な発想、個々のプレイヤーを均質な存在として扱うオーケストラという組織に対する違和感があったことがわかります。
武満にとってジャズとは個々人が身体・肉体を駆使して生み出す官能的な「行為」であり、そこには強い生命力とエネルギーが本来はあったのでした(ただ当時の「モダン・ジャズ」は既に洗練の過程に突入してしまっていて氏はそれが不満だったらしい)。武満にとって音楽はもともとそうした個人的な行為を通じて「自然との神秘的な交感」を得ることだったようです。
こうした発想を西洋的なオーケストラに持ち込んだ「テクスチュアズ」という作品は、セクションによっては一人一人のプレイヤーのために五線譜が用意されることになり、演奏者からは大変な不興を買ったエピソードが語られています。オーケストラというのは元々統合の取れた一つの巨大な音響装置として機能するわけで、その中で個々の演奏者を大事にしすぎるともはや従来のオーケストラ音楽ではなくなってしまうわけです。
武満がジャズの中に感じ取った個々のプレイヤーの身体性・個人性、一音入魂的な姿勢による「自然との交感」は雅楽をはじめとする日本の伝統音楽に近いものがあり、「ノヴェンバー・ステップス」のような代表曲はそういう文脈の中でも理解できるのでしょう。
ただ武満氏はこういうことも言っています。
日本の音楽は、さっきの音色の話のように、ひとつの美しい、ポーンと出した音のなかに、なんかある世界を全部読み取っちゃうようなことを繰り返してきたわけですけれど、それが落ち込んでいくある種の頽廃というか、それはとってもこわいように思ったんですね。(…)
音楽は個人的な営みだけれども、決して個人のなかで終わってはならないというようにぼくは思っているからです。そういう頽廃のなかに身を置いてしまうということは、もしかしたら容易なことかもしれない。だけど、やっぱり、そうなっては何のための音楽なのかという気がする (武満徹・音楽創造への旅 p.347)
武満にとって音楽は最後まで他者、リスナーとの関係性の中に存在するものであったのでしょう。ジャズや日本の伝統音楽が持っている原初的な、近代化され洗練されてしまう前のエネルギーに憧憬を持ちつつも、そこに単純に回帰するのではなく、かといってオーケストラに代表されるような近代性をそのまま受け入れるのでもなく、その狭間で自分の音楽を探求していたところが武満徹という音楽家の面白いところだったと思います。
調性の信奉者
武満徹は12音音楽の発展形である、トーナル・センターのない完全無調のトータル・セリエリズム(代表的な作曲家はピエール・ブーレーズ)に対しても違和感を持っていたようです。これも上で触れたオーケストラが内包していたようなヨーロッパ的な近代性の産物だったからだと思います。1オクターブ中のどの音にも特権的な重みを持たせないかたちで音を「構築する」この手法は、武満の中ではオーケストラの中である意味無個性に決められた役割を予定調和において演じる音楽家たちの姿と重なっていたのかもしれません。
武満徹はリディアン・クロマティック・コンセプト(LCC)を、ジョージ・ラッセルが出版する前に手稿状態で読んでいたことがインタビュー中で語られていました。12音全てが「正誤」ではなく「トニックへの遠近」によって関係づけられるLCCの思想は武満にとってかなり重要なものだったことがわかります。1966年の「地平線のドーリア」ではLCCの考え方を応用し、ドリアンモードから様々なモードを派生させ作曲したそうです。
オリヴィエ・メシアンとのエピソード
この本のインタビューではフランスの現代音楽作曲家オリヴィエ・メシアンとの面白いエピソードも語られていました。メシアンの音楽が「ジャジー」だと感じていた武満は、「アーメンの幻影」の中に三小節完全にデューク・エリントンと同じフレーズがありますね、と言ったら激怒されたらしい(笑)。武満はその類似が気に入っていたけれど、メシアンはジャズ的な音楽は下に見ていたところがあるのでしょう。武満が「自然との神秘的な交感」を志向していたように、メシアンは「(カトリック・キリスト教における)神との交感」を志向していた感があり、神秘主義的な親近感はあったのだと思いますが、やはり西欧近代的な思考とのせめぎあいの中で戸惑うことが多かったのだろうとあらためて思わされます。
自然・夢・数
武満徹はナチュラリストであり神秘主義者でもあったと思います。自然の中から音楽を汲み取る姿勢はバルトークを思わせます(そのバルトークも独自の調性理論で面白い音楽をたくさん生み出していました)。あと彼は夢で見た動物や図形をベースに作曲したり、数の秩序もよく導入していました。下の曲はチェロとピアノのための「オリオン」という曲ですが、チェロの主題などはもう完全にオリオン座の中心の3つの星です。
1/4の微分音やプリペアード・ピアノ的奏法も、やはり整然とした西欧的近代化への違和感から自然に武満の中から生まれてきた音楽語法であると考えるとしっくりきます。この曲は私にとってアルバン・ベルクを彷彿させる音楽で、大好きです。崩壊寸前だけど調性があるこの感じがたまりません。美しい。
調性というのは、もともといい響きを求めてできたシステムみたいなものですから、調性を使えばそれなりにいい響きがすることはわかっている。しかし、調性による陳腐な響きはいやだ。調性を離れたところで、どうやっていい響きを作っていくか。そういう問題意識がずっとあったわけです。 (武満徹・音楽創造への旅 p.373)
武満さんがまだ存命中であったなら、AKB48やカート・ローゼンウィンケルやブラッド・メルドーやロバート・グラスパーの音楽についてどんな言葉を口にされただろう。そんなことを考えるとちょっと面白かったりします。
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