その日、ぼくは新しいギターが欲しくなり渋谷の有名ギターショップ「ウォーキン」に足を運んだ。狭い階段を上り扉を開く。しかし、扉の向こうは何故か居酒屋だった。カウンター席に通されたぼくの前に、板前さんが刺身の盛り合わせを置く。いったい何が起こっているのか。
まだ、わからないのか…
振り向くと、隣にはマイルスがいる。巨大なサングラスにアフロヘアー。ビールのグラスを片手に、ガムを噛んでいる。
ここは『ウォーキン』ではない…『魚金』という居酒屋だ…人工知能がお前に見せているこの仮想現実も、完璧ではない…バグがある…この場合、『ウォーキン』と『魚金』という2つの関数が、競合を起こしている…
ぼくはなんだか腹が立ってきた。マイルスの話は荒唐無稽すぎる。ハマグリがホンビノスだとか、本当のぼくは眠って夢を見ているだけで磯丸水産もぼくのES-335も十二平均律もすべて幻なのだとか、そんな話にはもううんざりだ。ぼくはマイルスを無視してウナギの蒲焼きを食べることにした。
それはウナギではない…本物のウナギは数十年前、人工知能と人間との間に戦争が起こるよりずっと以前に、絶滅した…そのウナギのようなものは、「アナゴ」と呼ばれるバイナリーコード、つまりそれも…幻だ…
マイルスの指の間から煙草の煙が立ち上る。おかしい。居酒屋魚金は店内全面禁煙のはずだ。なのに誰一人マイルスに注意しようとはしない。ぼくは目の前にあるウナギを食べてみた。しかしマイルスが言うように、それはぼくが知っているウナギとは味が少し違っていた。美味しいことは美味しい。しかしこれはマイルスが言うように、『アナゴ』と呼ばれる、ウナギに似せた感じのコンピューター・プログラムなのかもしれない…
次の瞬間、ぼくは巨大な水槽の前にいた。不思議なサカナが口から泡をぷくぷく吐き出しながらぼくを見つめている。その人は預言者だ、とマイルスが言った。
この世界でエージェント(人工知能)たちに発見されないよう、さりげなくフグの形態を取ってはいるが、この世界のはじまりから終わりまで、全てを知っているお方だ…彼女は名を『オラクル』と言う…ついでに言うと…ジョージ・ラッセルという名で、リディアン・クロマティック・コンセプトという本を書いたのは、実は彼女だ…
ついにやってきましたね、とそのフグはぼくの脳に直接語りかけてきた。
ついにこの日が来たのですね、タブログ。あなたはこの世界で、ジャズギ・タブログという名前で、ギターを弾いたり、どうでもいいブログを書いたりしているようだけれど…それはすべて幻…カセットコンロで楽しく魚介を焼いている時でも、本当のあなたは、火の消えた冷たいカセットコンロの前の椅子に縛り付けられていて、人工知能のために発熱しているだけ…そしてあなたの仲間たちも…
お客さん、閉店ですよ!店員さんがぼくの肩をやさしく揺する。どうやらぼくは貝を焼きながら眠ってしまっていたようだ。いや、しかし、何かがおかしい。閉店?磯丸水産は24時間営業のはずだ。
ぼくの前には、火の消えたカセットコンロが置かれている。ぼくは回りを見渡した。すると、他のお客さんたちは全員椅子に縛り付けられていて、カセットコンロを前にしてウトウトしている。これが、これが現実なのか。あの貝も、あのエビも、ホッピーと呼ばれる飲料も、全て幻だったというのか…
お前は、決めなくてはならない…とマイルスが呟く。
目覚めて俺達と一緒に、楽器の訓練をし、音楽を武器に人工知能と戦うか…それとも夢の中で毎日酒を飲み、ホンビノスやアナゴを食いながら一生を終えるか…甘美な幻影と、過酷な現実…どちらを選ぶかは、お前次第だ…それと…土日は酒を飲まず、長時間練習しろ…わかったか…
SMJ (2016-05-25)
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