先日、渋谷・神宮前のTHE ROASTERYというコーヒー店でエスプレッソを飲みました。エチオピア・グジ地方産の豆から抽出したもの。ダブルで頼んだのですが、不思議な味でした。そして飲んでいる時に、思いました。これまで飲んだことがない複雑な味だけど、この味を自分は後で正確に思い出せるだろうか、と。
それを飲んだのは大体3週間ほど前。いま、この写真を見ながら味を思いそうとしてみます。複雑な(=重層的, complexな)味だったのは覚えています。単に苦いだけのエスプレッソには1度と5度しか入っていないとしたら、これは3度と7度、9th〜13thまでのテンションが入っている感じでした。あとフルーティーな感じがしました。
メモ的に撮った商品説明写真には「ジャスミン、スウィート・レモン、調和的」という言葉があります。これはお店のバリスタの方がそうした言葉でこの豆を認識しているということでしょうか。私はジャスミンやスウィート・レモンの味をこのコーヒーには感じなかったのですが、調和的という言葉、フルーツっぽい味、ハーブティーに通じる何かがあったような気は、なんとなくしています。
どんな言葉でも良いので、自分なりに何らかの名前を与えることができると、それを認識しやすくなるはず。命名(記号化)するプロセスの中で止むなく失われる細部はあると思うのですが、ざっくりでも名付けられるのなら、後になってその主要な部分を思い出しやすくなる。これはサウンドでも同じではないかと思います。
例えばxΔ7(#11)、またはxm6というサウンドは、最近私の中では「黄昏時のオレンジ色、このあと夜が訪れるのかもしれないけれどとりあえず時間が停止したようなオレンジ色の風景」という感じで記憶の中に定着しています。こんな感じで何らかの記号的ラベルを纏って定着しているものは、わりと記憶から取り出しやすいような気がします。
演奏中に「あれをやる!あれ、でも何だっけ」と考えてしまうようなコード、インターバルは、意識の中で十分に地位を確立していないのではないか。私の場合どうだろう。2(9), b2(b9), 3, b3(#2, #9),11(4), #11, b13(#5), 13(6), b7…大体すぐ音をイメージできるし、それと関連する色のようなイメージがあるのですが、中には比較的弱いものもあるな、と今思います。容易に言葉にしやすいものと、そうでないものがある。
音楽は音だけで考えるべきだ、という議論が昔からあります。音楽家は語るな。音楽は感情であり、情熱であり、右脳である。そうした主張もわかるのですが、もし人間の無意識が言語や記号から逃れられないのなら、人は一度(あるいは何度でも)徹底的に言葉や記号に向き合ったほうが良いのではないか、とも思います。
言葉に頼るな、という人も、結局は言葉を使っている。言葉や記号から解放されるためには、それらと徹底的に向かう合うしかない。子供の頃、私達は言葉や記号の介在なしに世界と繋がっていたのかもしれない。世界や現実はもっともっと直接的で、喜びに溢れていたのかもしれない。そこに言葉は必要なかったのかもしれない。湧き上がるメロディ。
でも私はもはやそんな純粋無垢な子供ではなくなった。もういい年をしたおっさんであり、子供ではない。大人が世界との関係、サウンドやメロディとの関係を再構築するためには、言葉や記号と徹底的に向かい合うことが必要なのではないか。勿論、本気の演奏中は全部忘れていいし、聴いてくれている人も右脳オンリーで良いとしても。
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