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私達が何かに感動するのは、それが何かに似ているからであり、似ていても全く同じにはならないので、似ることを恐れる必要はない、と思った話

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カート・ローゼンウィンケルが雑誌のインタビューで面白いことを話していたのを思い出しました。

– 以前、「自分のスタイルはグラント・グリーンとアラン・ホールズワースから来ている」といったような発言をしていましたね。

そうなんだよ。それが一人歩きしちゃったけど、今は間違いだったと思っている。自分のスタイルを定義するために他の人を使うべきじゃないと思うから。そのときは、それが分かりやすい説明かなと思ったけど、それは実態を表していない。僕の演奏方法を分析し、それがどこから来ているのか知りたいと思って、その答えを外界に求めるのなら、僕のスタイルを構成する様々な要素の名称が挙げられるだろう。でもそれだけでは真の答えは得られない。なぜならそれは僕自身から来ているからだ。もちろん僕がこれまでに受けてきた影響を過小評価するつもりはないけどね。

Jazz Guitar Book vol.23 「未来を担うメインストーマー達」より 
(インタビュー・文:工藤由美氏)

これを読んだ時、「グラント・グリーンとホールズワース!なるほど!」と思ったのを覚えています。ホールズワースの影響はわかりやすい。けれど、グラント・グリーン? カートのフレーズにおける「ノートの選択」は全くグラント・グリーンっぽくないと思うのですが、グリーンの延々と取り憑かれたように弾きまくるあのヴァイブ、ロングトーンをポーンと放つ感じを思い出すと、「なるほど、そこにもルーツがあったか」と妙に納得したのでした。

また、カートが一時は「自分のスタイルはグラント・グリーンとアラン・ホールズワースから来ている」と語りながらも、現在はそういう説明は何か違う、と言っているのも納得しました。この一連の流れには何か大事なことが隠れているように思います。

ある文芸批評家がむかし、「フランツ・カフカの小説が面白いのはそれがギュスターヴ・フロベールの小説に似ているからである。他のどんな小説にも似ていない小説が登場したら、その時私達は文学から目を背けることになるだろう」と何かの本で書いていたのを思い出します。

何かが何かに似てくるというのは、本質的に悪いことではありえないし、ごく自然なことだと思います。また、人は芸術作品に類似性を求めてさえいるでしょう。子供は親に同じ絵本を何度も読んでもらいたがります。あの同じ物語を、また聞きたい。追体験したい。何度も聞いたことのあるはずの物語なのに、子供は感動する。

それと似た感じで、ある人の演奏に「聞き覚えのある雰囲気」を感じたり、「聞き覚えのあるカッコイイフレーズ」が聴こえると、私達は「イエイ!」となる。ただ絵本の例とちょっとだけ違うのは、その演奏は誰かの演奏とそっくりそのまま同じではないし、誰かの影響を受けていてもきっちりその人の血肉になっていることが(名演においては)ほとんどである、ということでしょうか。

むかし誰も自分自身であることから逃れることはできない件という記事を書いたのですが、あらためて思うのは、他人から影響を受けることを恐れる必要はないはずだ、ということです。

誰かに習ったり誰かのフレーズをコピーすると、自分の中から大切な何かが失われる。自分自身の個性や独自性が見えにくくなってしまう。という意見を時々耳にすることがあります。学生時代にも「他人の演奏から学ぶな。聴くな。耳を澄ませて、自分自身の中に歌を聴き取れ」という感じのことを言う人は結構いました(その中には天才的にうまい人もいました)。

そういう考え方もあるのだと思います。が、私自身はいつか、気付きました。それはある意味ショッキングで、残念な気付きでした。それはこういうものです。

自分の中に、真空状態から生まれた歌なんかあるのか。自分の中に、何にも似ていない歌が聴こえるか。無から発生するようなメロディが聴こえるか。流れているか。そんなもの聴こえない。

これが天才と凡人の違いなのか、と落ち込んだ瞬間でした。と同時に、誰か他の人の演奏を聴いて、それをコピーして、気持ちよく同じふうに歌っているうちに、フレーズのリズムが少しづつ変化し、いくつか音程を変えるようになり、それを違う曲で、時には全く関係ないコード進行で弾くようになった時、私は自分自身のことが少し分かってきたのでした。

ああ、俺はこのフレーズ好きなんだ。こういうフレーズ。これ、元々はピーのピーから耳コピーしたフレーズなんだよな。これいいな。最高。

他人に学ぶことによって、自分の好みに気付いた瞬間でした。そして自分の個性にも気付き始めました。他人に学び、模倣し、練習した結果、自分の個性を獲得した、のではなく、元々自分に備わっていた個性が、自分に対して明らかになっていった、という感覚だったように思います。必死になって「自分探し」をしても、たぶんうまく行かなかったと思います。

ミック・グッドリックがこんなことを書いています。

  • 自分の音楽のルーツを無視しないこと。(Don’t neglect your musical roots.)
  • あなた自身の個性について研究するのはやめて下さい。他の人の個性について、研究してみましょう (Don’t try to make a study of your own individuality. Make studies of everyone else’s individuality.)

前人未到の即興を生み出すギター演奏の探求より

ほんといいこと書いてある本だな、といつ読んでも思います。多分、一部の超天才的な人は、自分自身を研究することによって何かに辿り着くこともあるのかもしれません。早死しちゃったけど、エリック・ドルフィーなんかそういう人だったのではないかと思ったりします。でも多くの場合、よく多くの他人の演奏に触れたり、一緒に演奏したりすることで、逆説的に早く自分自身のスタイルが見えてくるのではないか、と個人的には思います。

他の人の音楽を全く聴かず、コピーもせず、自分でフレーズを作ったり作曲に集中する時期が周期的に訪れることがあり、それはそれで必要なことだと思うのですが、他人に学んだり、影響を受けたり、似てしまうことが怖いと思うことは、私はないです。また、誰かの演奏に誰かの影響が聴こえると、「おお〜いいな〜」と思うことはあっても、「なんだ、◯◯に似てるじゃん」などとネガティブに思うことは全くないです。

(※ただしプロの方に「◯◯っぽいところがあって感動しました!」などと言うとムスッとされることも… それに、最終的にその人の演奏はその人の演奏なので、「◯◯っぽくて、すごく良かったです!」などという感想を述べることは、やっぱり何か違うんでしょう。つい言ってしまうことがあるので気を付けたいところ→自戒を込めて書いています)。

誰でも、一時的に他人に似てしまっても、最終的にその人にはなりきれない。なろうとしても絶対になれない。どうやったって自分自身の要素は、滲み出てきてしまう。だから、どんどん影響を受けて良いのではないかと個人的には思います。悪影響とかはないのではと思います。

パット・メセニーの演奏からはウェスが聴こえてくるし、エミリー・レムラーからはマルティーノが聴こえてくるし、トニー・モナコからはジミー・スミスが聴こえてくる。影響はあるけれど、似ているけれど、同じではない。それはやはりメセニーでありエミリーでありトニー。

似ているから感動する。そこに歴史があり、何かが継承されている、ということを感じる。メセニーはエスペランサ・スポルディングについて、彼女は誰にも似ていないと言っていたけれど、やっぱり何かが確実に継承されている感じがするから私達は感動してしまうのではないか。これはベン・モンダーにも同じことが言えるように思います。

私はフリー・ジャズも好きでよく聴くのですが、「何にも似ていない・何かを継承している感じがしないフリー・ジャズ」で感動したことはあまりないです。そして感動しまくるセシル・テイラーやデレク・ベイリーなどは、本人達は嫌がるかもしれないけれど、やはり何かに似てしまっているし、何かを継承してしまっている(だがそれがイイ!)。

この「継承」という観念は、ジャズというジャンルではとても大事なものではないかと思います。


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