あの金曜日、僕はいつものように「上北沢ソユーズ」のジャム・セッションに参加し、いつの日かマイケル・シェンカーと共にマジソン・スクエア・ガーデンのステージに立つ日を夢見て複雑なコードを放ち続けていた。そして事件は起きた。沸騰したケトルがピーと音を立てるように。
テナー・サックスのその男は、聞かれてもいないのに自己紹介をした。「ハルキと言います、東京都庁で公文書を黒く塗る仕事をしています。」そして、この曲を一緒にやって欲しいんだ、と譜面のコピーをみんなに手渡した。それは白身魚フライのないのり弁のような、一面が海苔で覆われたような譜面だった。
「何ですかこれ」
「誰の人生にも黒塗りしたい過去はある。政治家について言えば、過去の全てが黒塗りされるべきだとさえ思う。黒塗りの部分は、きみの想像に任せる」
「やれやれ、だ。これでは何も演奏できない」
「完璧なリード・シートなどというものはこの世に存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。コードは石に刻まれているわけじゃない。メロディなら風の中にある。そういうことだ」
「いや、ざっくりしたので構いませんから、黒塗りじゃない譜面を下さい。お願いします」
「地図がないと、僕達は無力だ」
「確かにそうかもしれない」
「きみはその譜面を使ってもいいし、使わなくてもいい。自分探しに必要なのは、誰かが書いた地図じゃない」
「いいから譜面探してこい」
ハルキと名乗ったその男は、上北沢ソユーズを出入り禁止になった。しかしこの夜に渡された譜面の本当の意味を理解できたのは、それからずいぶん後のことだった。
曇り空の日曜日の午後、僕はマイルス・デイビス・クインテットを聴きながら、冷たくなったパスタを台所で立ったままフライパンから食べていた。
「ハーモニック・マイナーには秘密があるって、知ってる?」と彼女は言った。
「スコット・フィッツジェラルドなら知っているかもしれないね」と僕は言った。「それかジャック・ケルアックなら知っているかもしれない。でも問題は、僕が彼らだった試しは一度もなかったということだ」
「抱いて」
「すまない。僕はいまからぶり大根をつくるから、きみは昨夜の残りのカキフライを持って帰って、家で食べてほしい。独りで。」
「半音で隣りあったメジャー・トライアド、それがわたしたちということね」
「君とは、ズッ友だょ」と僕は言った。
それが僕達の最後の会話だった。張ったばかりの新品ダダリオ弦が突然切れた時のように、僕達の関係は唐突に終わった。それは理不尽で、冷たく、そして誰もが一度は経験する小さい死だった。
20年前のあの日、僕はあの小さい「ょ」をきちんと発音できていただろうか。それを知る術は、永久に失われた。人生とは、多くの場合そういうものだ。聞いたことのあるフレーズをいくら詰め込んでも、E.S.P.は弾けるようにはならない。歌は、風の中にある。そういうことだ。